第8章 内容を確認する作業

第36話

 クレイルが僕に依頼したのは、彼女自身の遺書の執筆だったが、本当はそうではなかった。遺書の主体は、クレイル本人ではなかったのだ。もちろん、遺書は自分が伝えたいことを綴ったものに違いないが、自分の人生について振り返ったものではなく、他者の人生について彼女が振り返ったものだった。


 クレイルが話した内容を僕が文章の形にするのなら、当然、僕自身もその内容を理解するはずだ。けれど、僕はその点で最大のミスを犯した。クレイルと子どもたちの事情に僕自身が感化されないように、彼女の言葉の意味を認識しないようにしたのだ。言葉には人の思いや考えが反映されるが、言葉そのものに焦点を当てて、無機質なものとして捉えれば、そこに込められた意味を理解することはできなくなる。それは、形を伴ったただの記号でしかなくなる。


 三ヶ月の寿命を迎えてこの世を去るのは、クレイルではなく、ココだった。生まれながらにして持病を患っていたココは、延命するための治療を行ったものの、確かな効果は得られなかったとクレイルは説明した。


 僕は、彼女の説明を受けるまで、本当に何も理解していなかった。ただ、リィルからココに異常が見られると聞いた時点で、何かがずれているような感覚を抱いた。おそらく、リィルは、ココの身体が発熱しているのに気がついて、彼女が風邪を引いているのにも関わらず、無理をして自分と一緒に遊んでいる、くらいに考えたのだろう。リィルは、事態が自分にとって重要ではなくても、それに感情移入してどうにか解決したいと考える。だから、彼女はココが無理をしているのではないかと思い、心配した。それを僕に伝えようとしたのだ。


「……なぜ、最初の段階で、指摘しようと思わなかったんですか?」


 クレイルの説明を途中まで聞いてから、僕は彼女に質問した。


「そうしようと思わなかったわけではありません」彼女は話す。「ただ、貴方が気づかないまま事が済むのなら、そのままでも構わないと考えました」


 さらに、クレイルは、ココが自分の子どもではないことも、僕に説明した。


 ココは、生まれてすぐにクレイルに養子として引き取られた。生まれつき持病を患っていたココを育てるには、養育費に加えて治療費を払わなくてはならないが、彼女の両親にはそれができるほどの経済力がなかった。その結果、養子を欲しがっていたクレイルのもとにココは預けられることになった。


 ただし、この一連の取り引きに問題があった。本来とられるはずの正式な手順が、ココの両親側の都合で省略されたのだ。いってしまえば、それは非合法的な取り引きだった。


 クレイルには、ヴィのほかにもう一人子どもがいたらしい。しかし、その子どもは生まれてすぐに死んでしまった。ヴィの血の繋がった姉に当たる人物だが、彼女はヴィと出会う前にこの世を去った。そしてクレイルはココを引き取り、ヴィが生まれ、今のこの家庭が形作られた。


 クレイルが僕に書かせていたのは、ココの両親に送るための、今までのココの成長記録だった。クレイルが僕に虚偽の依頼をしたのは、過去に行われた不当な取り引きを隠すためだ。クレイルは、事実を伝えたあと、それについて黙っていてほしいと、最初の段階で僕に伝えるつもりだった。しかし、彼女の想定は大きく外れることになる。


「貴方が、最初にそれに気づかなかったのも、このタイミングで気づいたのも、すべて偶然です。でも……。こんなにもタイミングがいいと、それにも意味があるように思えてしまいます」


 クレイルは、相変わらず笑顔を浮かべている。しかし、彼女の頬は涙で濡れていた。


 僕には、その涙が何を示しているのか、分からない。


 ずっと育ててきたココと別れるのが、その事実を改めて認識するのが、辛いだけかもしれない。


 でも……。


 それは、僕の勝手な想像にすぎない。

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