第35話

 自分が書いたものなのに、初めて読むような気分だった。事実として、僕はそれを読んだことがない。自分で考えたことを文章にするのは、頭の中にある内容を可視化する作業だから、書いている最中には、読んでいなくても内容を理解している。けれど、これはクレイルが話したことを僕が文章にしたものだから、それとは違う。僕は、いってみればクレイルの腕になっていたわけだが、その腕は、彼女の脳と繋がっていたわけではない。


 そして、僕がそれを読むのが初めてだと感じるのは、それだけが原因ではなかった。


 そう……。


 それが、僕が犯したミスだ。


 手紙に記されている内容は、僕が想定していたものと随分違っていた。クレイルは、初めからそのつもりだったのだ。本当なら、僕は最初の時点でそれについて彼女に言及するべきだった。しかし、僕がそれをしなかったから、クレイルは不思議に思ったに違いない。そのあと、クレイルがどのような結論に至ったのか、僕には分からない。ただ、彼女の中で何らかの結論が出されて、それに則って僕に接していたことは間違いない。


 突然、背後でドアの開く音がした。


 僕は後ろを振り返る。


 こうなることは、ある程度は予想していた。


 けれど、実際に事態に直面すると、どんなふうに対応したら良いのか分からなかった。


「ああ、やっと、気づいたのね」クレイルは笑顔で言った。「あまりにも遅いから、心配していました」


 彼女は自然な動作で部屋の中に入り、いつものように椅子に腰かける。それから、背後にいる僕に目を向けて、僅かに首を傾げてみせた。


「どうかしましたか? まだ、始めないつもりですか?」


「……これを、読んでもいいですか?」


 僕がそう尋ねると、クレイルは笑顔のまま頷いた。


「ええ、どうぞ。でも……、今まで貴方が書いてきたものなのに、今さら読み返したいなんて、変だわ」


「ええ……。どうして、今まで気づかなかったんでしょう」


「さあ、どうしてかしら……」


 僕が手紙の内容を確認している間、クレイルはずっと無言だった。ただ、彼女はずっと笑顔だった。それが彼女にとっての無表情なのだろう。ただ、意識的にそうしているのか、本当にそれがデフォルトなのか、僕には判断できなかった。


 ココでも、ヴィでもなく、僕が本当に知らなかったのは、クレイルだった。


 手紙に一通り目を通し終え、僕はそれをケースの中に戻して、キャビネットの扉を閉めた。鍵をもとの場所に戻し、引き出しを閉じる。


 クレイルの対面に座り、僕は暫くの間黙っていた。


「どうしたの?」クレイルが訊いた。「何か、気に障ることでもありましたか?」


 僕は彼女を見つめる。


 自分がどんな表情をしているのか、分からなかった。


「……どうして、嘘を吐いたんですか?」


 笑顔のまま、クレイルは僕の質問に答える。


「嘘を吐いたつもりなんて、なかったわ」彼女は言った。「たしかに、依頼をする際には事実と異なることを伝えましたけど、貴方がここに来て、最初に仕事をしてもらうときに、気づいてもらえると思っていました。でも……。貴方は、何も言わなかった。それどころか、何も気づいていないみたいだった。最初の内は、気づいたうえで、あえて言及しないのかとも思っていました。けれど、その後の貴方の行動を見て、それが違うことが分かった。だから、どういうつもりなのか、暫く観察しようと思ったの。貴方が気づくまで、私も黙っていることにしたわ」


 僕は沈黙する。


「……あと、どれくらい保つんですか?」


「その数字に、嘘はありません」クレイルは答える。「三ヶ月です。長いのか、短いのか、分かりませんけど……」


「貴女は、それでいいんですか?」


「いいえ、よくありません。でも、私にはどうすることもできないんです」


 目の前に置かれている万年筆を手に取って、僕は意味もなくその先端を見つめる。ペン先は鋭く尖っている。それがあれば、皮膚を裂くことくらい容易にできそうだ。


 その連想に意味はない。


 ただ、マイナスな思考から、そうした連想をしてしまっただけだ。


 僕は酷い人間だった。


 いや、人間ではない。


 人間としての優しさを、どこかに置いてきてしまったのかもしれない。


「ココは、もうすぐ死にます」


 クレイルの声が聞こえる。


 ずっと笑顔だった彼女が、その瞳から涙を流したのを、僕は見逃さなかった。

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