第34話

 それから、あまり眠れないまま夜を過ごした。意識は遠退いていたが、眠っているとは形容できないような、浅い眠りだった。疲れも完全にはとれず、朝になって身体を起こすと、微妙に重たい感じがした。リィルはよく眠れたようで、目を覚ますと、二段目のベッドから勢い良く飛び降りてきた。


「危ないじゃないか」


 僕がそう言うと、彼女は不思議そうな顔をして言った。


「そうだよ。当たり前じゃん」


 着替えを済ませて、洗面所で顔を洗ってから、二人揃ってリビングに入る。いつも通りテーブルには料理が並べられており、ココとヴィは所定の位置に座っていた。


 僕たちが部屋に入ると、二人が挨拶をしてくれた。こうなったのは、三日ほど前からだ。


 僕が隣に座ったのを確認して、ココが少しだけこちらに視線を向けてきた。昨夜のやり取りがあったから、多少気にしているようだ。僕は無難な笑顔を作り、何も言わないで軽く肩を竦めてみせた。ココは、僕のジェスチャーの意味を考えているみたいだったが、やがて一度小さく頷くと、顔を正面に戻してしまった。


 クレイルが、ホワイトシチューが入った鍋を、テーブルの中央に置く。朝からシチューを煮込むとは、なかなか気合が入っているな、と僕は思った。今朝のメインディッシュはシチューだが、食べたい人は食べ、食べたくない人は食べる必要はないといったルールが、この家庭には築かれている。大抵の場合、ココはメインディッシュを少しだけ食べるか、ほかのものを食べるかのどちらかだが、ヴィは例外なくメインディッシュに手を伸ばす。僕とクレイルは、すべてのものをバランス良く食べるようにしている点が、共通していた。


 軽く挨拶を交わしてから、それぞれ朝食をとり始める。


「ねえ、お母さん」食事が始まると、ココがすぐに口を開いた。「私……、今日は、一人で自分の部屋にいてもいいかな?」


 ココの言葉を聞いて、クレイルは彼女を見る。


「ええ、いいわ」理由を尋ねるかと思ったが、クレイルはココの要求を無条件に承諾した。「じゃあ、今日は、ヴィだけをお願いします」


 クレイルの言葉を受けて、リィルは軽く頷く。彼女の頭の上には疑問符が浮かんでいたが、それは僕も同じだったかもしれない。今日と明日しかないのに、リィルと接する機会をココが放棄することに対して、クレイルが何も言わなかったのが不思議だったのだ。


「今日は、どうする?」


 シチューを食べながら、ヴィが隣に座るリィルに尋ねた。


「え? ああ、うーん、そうだね……」リィルは考える。「ヴィは、何がしたいんだっけ?」


「かくれんぼだけど、雨が降るみたいだから……」ヴィは言った。「だから、リィルがしたいことでいいよ」


「うーん、そう言われても……。……あ、じゃあ、二人だけだから、トランプでもする?」


「え? トランプって、二人でもできるの?」


「できるよ。まあ、ちょっと、意地悪な感じになるけど」


「意地悪って、どういうこと?」


「やってみれば分かるよ」リィルは不敵に笑った。「意地悪なこと、したい?」


「したい」


 二人揃って、悪に染まったようだ。小さな子どもに変な教育をしないでほしいと思ったが、今さら言っても遅いだろう。今までだって、リィルが二人に何を教えてきたか分からない。もう少し早い段階で注意しておくべきだった。


 朝食は程なく終わり、今日はリィルが食器を洗うことになった。いつもならココが洗っているが、彼女は早々に自分の部屋に戻ってしまった。クレイルは洗濯物の仕分けをしている。日によって、ヴィが手伝うこともあった。どういうわけか、この家に来てから、僕はあまり家事をしていない。クレイル曰く、一番重要な仕事をしてもらっているのだから、これ以上ほかの仕事をさせるわけにはいかない、とのことだったが、僕としては申し訳ない気持ちが強かった。


 しかし、今日は、それが良い方向に作用した。


 ほかの人たちがそれぞれ作業を行っている間に、僕は一人で応接室に向かった。ドアを開けて中に入り、後ろ手にドアを閉める。中央にあるデスクを迂回し、その向こう側にあるキャビネットに近づいた。そちらの壁はほとんどが硝子張りになっており、唯一このキャビネットだけが置かれている。キャビネットの引き出しからアルミ性の箱を取り出し、その中に入っている鍵を手に取る。引き出しをもとに戻し、キャビネットの硝子扉にある鍵穴に鍵を差し込んで、右側に九十度捻って解錠した。


 扉の向こう側には、僕とクレイルが今まで書いてきた遺書の束がある。何枚もの羊皮紙がトレイ型のケースに入れられており、上から順番に文字の記された手紙が続いている。


 僕はその紙の束をすべて取り出した。


 一度、深呼吸をする。


 それから、最初から順番に目を通していった。

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