第33話

 午後十一時になり、部屋の照明は自動的に消えた。それに伴って、僕とリィルも布団に入った。ここに来てから、毎日この時間帯に眠っているから、大分健康的といえる。夜更しするのも良いが、早く眠ると、健康を貯金しているみたいで、僕の性分には合っていた。


 意識的に何も考えない時間が続く。


 夢は見なかった。


 何か音が聞こえたような気がして、僕の意識は急速に現実に引き戻される。


 目を開けた。


 辺りは暗闇に包まれていて、何も見えない。


 部屋の暗さに目が慣れるのに、少し時間がかかった。


 周囲を見渡す。


 ドアを一枚隔てた向こう側で、何かが床に落ちるような音がした。


 それが、二、三回と続く。


 枕もとに置いてある懐中電灯を手に取って、僕はベッドを抜け出す。


 ハンガーを通してベッドの縁にかけてあったジャケットを手に取り、それを羽織った。


 リィルは目を覚まさかった。小さな寝息が聞こえる。


 ドアを開けて部屋の外に出る。


 懐中電灯の電源を入れ、正面を照らした。


 何もない。


 ずっと遠くの方に、クレイルたちの寝室のドアが見える。


 音は、もう聞こえなかった。


 二階には、僕たちが借りているものと、クレイルたちが使っているものの、二つしか部屋がない。


 先ほどの音はすぐ傍で響いていた。


 部屋と、廊下で何も起きていないとなれば、考えられる場所は階下しかない。


 足もとを照らして、僕はゆっくりと階段を下りる。


 空間を下方向に移動。


 玄関に到着する。


 左を見て、次に右を見る。


 右手に持った懐中電灯の光が、リビングのドアを薄く照らし出した。


 光の一部が向こう側へと突き抜ける。


 ドアに隙間ができていた。


 たった今ドアが開かれた形跡がある。


 僕はそのまま廊下を進み、リビングの前までやって来る。


 その向こう側に誰かの気配を感じた。


 僕はその場で立ち止まる。


 しかし、何も躊躇する必要はなかった。


 ノブを握り、ドアをこちら側に引く。


 流出する暗闇。


 リビングに足を踏み入れる。


 直進。


 そして右側。


 シンクの辺りに誰か立っている。


 僕はその人物に懐中電灯を向ける。


 細い四肢。


 長い髪。


 片手にコップを持ったココが、こちらをじっと見つめていた。


「どうしたの?」


 緊張していたのか、僕の口からは上擦った声が出た。


 ココは、口に含んでいた液体を、ゆっくりと喉に流し込む。


 瞳は、少し濡れているように見えた。


「……喉が、乾いたから……」息を吐くように、ココは答えた。「お茶を、飲もうと思って……」


 懐中電灯の光を向けたまま、僕はココに近づく。


 コップには、まだ半分ほどお茶が入っていた。ココはそれを少しずつ口に入れ、少しずつ飲み込んでいく。本当は一度に飲みたいのに、それができなくて、やむをえず少量ずつ飲んでいるような、そんな不思議な動作だった。


「貴方は、どうして……」


 お茶を飲み込んで、ココは僕に尋ねる。


「音がしたから、気になって、見に来たんだ」僕は説明した。「階段を下りるとき、足取りが覚束なかったみたいだけど、大丈夫?」


 僕がそう尋ねると、ココは若干睨むような目つきで僕を見た。瞳の表面には、やはり涙が滲んでいる。懇願するような目で見つめられて、僕は少し苦しくなった。


「……私は、平気です」


「そう? それなら、いいけど……」


 シンクに置いてあったお茶のボトルを傾けて、ココはさらにコップに液体を注ぐ。それから、先ほどと同じように、少しずつ水分を体内に取り込んでいく。


 コップを水切り台から一つ取って、僕もお茶を飲んだ。ココの隣に立って、彼女と同じように、ゆっくりと冷たい液体を喉に流し込む。


「夜に飲むと、不思議な味がするよね」僕は言った。「何気なく飲むと何の味もしないけど、意識して飲むと、少し甘い気がする」


 ココは静かに頷く。


「寝ているときに、喉が乾いて目を覚ますのは、よくあること?」


 僕の質問を受けて、ココは一度首を傾けたが、すぐに頷いた。


「……寝ていなくても、喉は乾く」


 ココのカップを受け取って、僕は自分のカップと一緒にそれを洗った。水切り台にカップを戻し、傍にかけられていたタオルで手を拭く。


 その間、ココはテーブルの椅子に座っていた。


 洗い物を終えた僕は、彼女の傍まで歩いていく。


 そして、彼女の肩に触れた。


 体温の伝達。


 驚いたような挙動で、ココは顔を上げて僕を見る。


「身体、震えているよ」僕は言った。「本当に、平気?」


 ココは答えない。


 そのまま僕の顔をじっと見つめ、彼女は何度も懸命に瞬きを繰り返した。


 長い髪が、寝間着の隙間から見える鎖骨に触れていて、扇情的だ。


 けれど、そんな様子も、僕にはとても脆弱に思えた。


 彼女を見て、自分のものにしたい、という欲望が現れたのは、間違いではない。


 ただし、それは、一般的な形とは異なっている。


 僕は、彼女を守りたいと思った。


 本当に、それだけだった。


 細い肩に触れて、強くそう感じた。


 震える唇を見て、酷くそう思った。


 でも……。


 それは、僕には叶わないと、同時に悟った。


 だから、何もできなかった。


 肩に触れた手を離し、僕は彼女から離れる。


 ココは立ち上がり、ごめんなさい、と僕に言った。


 僕は、なぜ、謝られたのか、分からなかった。


 一緒にリビングを出て、階段を上った。廊下でココと別れて、僕は自分の部屋に戻る。懐中電灯の明かりを消し、布団に潜って、ぼんやりと上方の床板を眺めた。


 ココと二人で話したのは、初めてだった。


 リィルが、クレイルのことをあまり知らないように、僕もココのことを知らなかった。


 だから、今、多少なりとも彼女を知れて、良かったと思った。


 そして、もう、彼女と二人で話す機会は、ないかもしれないとも感じた。

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