第32話
いつも通りベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。もちろん、何もない。古びた板材が続いているだけだ。
二日目に手紙を書く練習をしたお陰で、僕は普段と異なる種類の単語を引き出せるようになっていた。手紙を書く際には、言い回しが重要だということも、実践を通して理解した。クレイルの話し言葉を、彼女らしい書き言葉にする過程は、それなりに興味深い。文の意味や、単語の意味を考えないように意識したことで、言葉と言葉の連結を言語的な視点から見られるようになった。一つのデメリットから、一つのメリットが生じたことになる。
僕は、そのまま眠ってしまった。部屋の照明を点けたままだったが、気にならなかった。
暫くして、肩を揺すられて目を覚ました。
すぐそこにリィルが立っていた。
「風邪引くよ」
僕はゆっくりと身体を起こし、自分の額に触れる。少しだけ目眩がしたが、すぐに治まった。
「毛布もかけないで、大丈夫?」
「うん」僕は頷く。「僕が、毛布にかかっていたから」
梯子を上って、リィルは上に上がった。
「ヴィとの風呂は、どうだった?」
僕が尋ねると、リィルは笑いを含んだ声で答える。
「そんなことが気になるの? 嫌らしいなあ」
「うん、そうかもね」
「うーん、なかなか大変だったよ、配分が」彼女は説明した。「私がお湯に浸かっている間、ヴィには身体を洗ってもらったんだけど、彼女、洗うのが遅くてさ……。まあ、私も他人のこと言えないから、お互いに、茹で蛸になりそうだった」
「一緒に、お湯に浸かったわけじゃないんだね」
「……何それ。本当に、そんなこと妄想しているわけ?」
「うん」
「気持ち悪い」
「想像するのは、人の自由だ」
「うわ……」
「その反応は、何? 想像しちゃ駄目なの?」
「酷い」
「何が?」
しかし、リィルは答えなかった。
僕は携帯端末を取り出して、画面を見る。ニュースを見るのではなく、天気を調べた。最近はずっと晴れていたが、明日は雨が降るみたいだった。先ほど外に出たとき、空は曇っていたが、雨が降りそうな様子ではなかった。これから急変するのかもしれない。
「……そういえば、君は、さっき、ココの身体に触れたって言っていたけど……」僕は尋ねた。「それは、どういう経緯で、そうなったの?」
リィルは、ココとヴィと遊んでいる際に、ココが何かに躓いて倒れそうになったから、それを支えたのだ、と説明した。特に走っていたわけではないが、自分の隣を歩いていたココが体勢を崩したため、手を添えて、抱きかかえるように彼女の身体に触れた。
「君の話を聞いて、僕も色々考えたんだけど……。うん、やっぱり、まだ、何もいえないと思うよ。さっきは、どうかしていたんだと思う。少し急ぎすぎた。それに、事態は君が考えているほど悪くはないと思う。いや、君が考えているのと、悪さの方向性は異なるといった方が近いかな……」
「それ、どういう意味?」頭上からリィルの声が聞こえる。
「そのままの意味だよ。ただ……。……人によって、何が良くて、何が悪いのかは、違うということ」
「……君は、何か分かっているの?」
「いや、まだ、分からない」僕は話す。「明日、確認してみるから、それまでは何もいえない」
僕の言葉を聞いて、リィルは黙った。
僕とリィルの思考回路は、似ているところもあれば、似ていないところもある。当たり前だ。どんな人間にも、似ているところと、そうでないところがある。それは僕たちも変わらない。
ただ……。
リィルには、どういうわけか、最悪の事態を、思考の枠組みから排除する癖があった。無意識の内にそうしているのだろうが、それはある意味では危険だ。予め最悪の事態を想定できていれば、いざその事態に直面したときに、慌てずに対処できる。一方、そうではない場合、束の間の安心感を抱くことはできるかもしれないが、その事態に直面したときにどうしようもなくなってしまう。もちろん、僕にも最悪の事態を想定したくない気持ちは分かる。明日地球に巨大な隕石が降ってくるという事実が判明したら、もうどうしようもないから、潔く死のうと考えるのが前者の考え方だが、後者の場合は、降ってきても何とか助かるはずだ、そうでありたい、そう願いたいと考える。後者の方が美しい生き方であることが確かだ。
「ココと、ヴィは、仲が良いの?」
リィルが何も話さないから、僕はたった今思いついたことを質問した。
「うん……。二人は、とても仲よしだよ」リィルは答える。「ヴィはココを信頼しているし、ココも、ヴィに頼られるのをよしとしているし……」
「まあ、僕にも、そんなふうに見える」
「それが、どうかしたの?」
「いや、どうもしない。ただ、気になっただけ」
「遺書の執筆は、上手くいっている?」リィルは唐突に話題を変えた。
「たぶん、あと二日もすれば終わると思うよ」僕は答える。「クレイルも、そのつもりだと思う」
沈黙。
どうも、会話が続かない。会話が続かない原因は、主に二つある。一つは、一方が他方を好んでいないこと。そしてもう一つは、そもそも会話の前提が噛み合っていないことだ。
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