第30話
道を進み、暗闇に淡い光を放つ邸宅に戻ってきた。玄関のドアを開けて中に入る。
リビングでは、クレイルが夕飯の支度をしていた。その隣でヴィが彼女の作業を手伝っている。一方で、ココはというと、テーブルの席に着いて本を読んでいた。リビングは半分だけ照明が灯されていて、今はシンクの辺りだけが明るくなっている。
僕とリィルが帰ってきたのに気づいて、三人ともこちらを向いた。クレイルはにこにこ笑っている。ヴィは、笑顔を引っ込めて急に大人しそうな表情になり、もともと落ち着いて本を読んでいたココは、おかえりなさい、と静かな声で僕たちに言った。
リビングの壁にかけられている時計は、午後七時を示している。まだ時間があった。リィルと相談して、今日は僕が先に風呂に入ることになった。ココもヴィもまだ入っていないから、今日は僕が一番風呂だった。
湯船に浸かりながら、僕は溜息を吐く。
疲労とは、不思議なものだ。外に出る前は、それなりに活発に行動できていたのに、リィルと少し話しただけで、どっと疲れを感じるようになった。身体が重くなり、歩きたくなくなった。身体的な疲労とは、筋肉に乳酸が溜まることで引き起こされるが、この短い間にそんなことが起こったとは考えにくい。精神的なダメージが、身体的な機能不全として表れたのだ。
肉体と、精神では、どちらが上位だろう?
SFなどの作品で、精神だけを肉体から乖離させて、ヴァーチャル空間で生活するといったギミックが登場することがあるが、本当にそんなことができるのか、僕はいつも疑問に思う。結局のところ、精神や心と呼ばれるものは、脳のはたらきによって生み出される。つまり、物質ではない。脳によって作り出された幻想にすぎない。その幻想だけを取り出して、仮想的に作られた世界に放つことが、果たして本当にできるのだろうか。
電子空間で脳内のはたらきを再現すれば、あるいは可能かもしれない。しかし、肉体と精神を分離させた存在が、人間と呼べるのかも疑問に感じる。人間をやめれば良い話だが、そんなことを受け入れられる人間は、まだこの時代にも少数しかいない。
精神だけを取り出して、ヴァーチャル空間で生活するという発想には、肉体ではなく、精神こそが人間の本質だ、という前提が根底に存在している。肉体と精神では、精神の方が上位だということだ。たしかに、その認識は間違えてはいない。人間には自分で決めて行動する自由があり、自分を殺して他者に尽くす愛があり、そして、自分に適切な意味を与える信念がある。それらを可能にしているのは、すべて精神のはたらきによるものだ。
けれど……。
もしそうだとしたら、人間が人を見た目で判断するのは、御法度にならなくてはならない。精神が何よりも重要なのだから、第一印象がどうとか、一目惚れだとか、そんなことはおかしいと考えられなくてはならない。
僕は、リィルに出会ったとき、彼女を綺麗だと思った。
それは、彼女の精神が綺麗だという意味ではない。
彼女の外見、つまり肉体の比率が、整っていると感じたのだ。
ウッドクロックは、人間をモデルに作られているから、当然、人間の理念を受け継いでいる。
僕は、見た目でリィルを判断した。
今、リィルが自分にとって最適な性格をしているように思えるのも、彼女の肉体から連想された、一種の幻想かもしれない。
それは反論できない。
では……。
思考は、自然と、ココとヴィの二人に向けられる。
彼女たちは、クレイルのことをどのように捉えているだろう? 子どもが母親を認識するのは、やはり視覚的な情報が第一であり、彼女の心的な優しさや、子どもを大切にする気持ちからではない。生まれたときに、初めて顔を合せ、初めてコミュニケーションをとった個体を、自然と母親だと認識するようになる。
コミュニケーション……。
人間にとって、最も身近なコミュニケーションは会話だ。口を動かして声を発するだけで、簡単に相手に自分の思いを伝えることができる。それは瞬間的なもので、少しでも時間が経過すればすぐに効果は失われる。
では、本当に伝えたい気持ちを、一度整理して、丁寧に伝えたいとき、あるいは、どうしてか分からない、けれど会話では伝えられない気持ちを伝えたいとき、人間はどのような手段を用いてコミュニケーションをとろうとするだろう?
浴室のドアがノックされる。
「大丈夫?」
リィルの声が聞こえて、僕は無意識の内に閉じていた目を開けた。
「ごめん、今、溺れているところなんだ」
「大丈夫なんだね」リィルは、僕の冗談を無視した。「もう、先に、ご飯食べているから」
そう言うなり、彼女の足音は遠ざかっていく。
身体に付着した水分を自然落下させて立ち上がり、一度大きく伸びをする。
浴槽から出て、精神をリセットするように、僕は自分の身体を洗い始めた。
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