第29話

 左右に広がる草原には、相変わらず生き物の気配がない。葉は枯れているわけではないが、黄色がかった色彩をしている。空はいつの間にか真っ暗になり、雲が晴れて月が視界の端に見えた。その月明かりに照らされて、草原は金色に輝いている。神秘的な光景だったが、どこか人工的なものを感じさせた。作りものめいた美しさが、僕たちの周囲を取り囲んでいる。


 森に足を踏み入れる。


 真っ暗で、不気味だったが、怖くはなかった。


「私、ココの身体に触れたの」


 リィルが突然言った。


 彼女の声は掠れている。


「彼女の身体、熱かった」


 足もとに転がっていた枯れ枝が、靴のつま先に当たって転がっていく。軽い音を立てて、枝は闇の中に消えていった。


「どういうこと?」


 彼女の隣に並んで歩こうと思ったが、僕は今の距離を保った。彼女の手を握りたい衝動に駆られたが、それも我慢した。


「凄く、熱かった」リィルは話す。「まるで、風邪を引いているみたいに」


 僕は考える。


 その瞬間、僕は彼女の言葉の意味を理解した。


 リィルも、それで僕が理解したと、理解しただろう。


 リィルは立ち止まり、また僕の方を振り返る。明らかに挙動不審だった。きっと、考えながら無理矢理手足を動かしているせいだ。演算処理にエネルギーを多く割いているせいで、身体機能の制御が追いついていない。


「……どうしたらいいかな」


 僕は顔を下に向けて考える。そこで、まず、自分のミスに気がついた。次に、そのミスによって見落としていた事実を確認するために、どうしたら良いのかを考える。解決する方法は簡単で、いくつも候補が見つかったが、その内のどれを選ぶべきかすぐには決められなかった。ただ、今すぐに決める必要はない。むしろ、今までそのミスを看過していたことが、最大の損失だと分かった。それさえなければ、もっと早い段階で対策を講じられていた。


 リィルから聞いた話と、自分が犯したミスを考慮に入れて、どのような状況が成立するかパターンを絞り込む。ただし、この作業は難しい。すぐには解決できない。想定される事態はいくつもあり、それぞれの起点からさらにいくつもの事態に分岐している。その内のいくつかは根拠がなくても除外できるが、可能性がないとは言い切れないから、今すぐには除外できない。


「分かった」僕は頷いた。「もう少し、待とう」


「でも……」リィルは声を上げる。


「もちろん、僕たちが関わっていい問題なのか、分からない。でも……。……君は、それを放置したくない。放置したくないから、僕に言ったんだろう?」


 リィルは小さく頷く。


「それなら……。まずは、何が正しいのかを、見極めなくてはならない」


 数秒間を要したが、リィルはまた小さく頷いた。


 僕とリィルは踵を返し、もと来た道を戻った。その間、二人とも何も話さなかった。


 おそらく、リィルはマイナスの方向に事態を捉えている。しかし僕は違った。プラスではないにせよ、マイナスには振り切れない、そんな微妙なバランスを想定している。リィルはココとヴィと長い時間を共有しているが、クレイルのことはあまり知らない。そして、僕はその反対だ。ココとヴィと共有した時間よりも、クレイルと共有した時間の方が長い。


 行動力という観点から考えた場合、より高いレベルに立つのはクレイルだ。ココとヴィはまだ子どもだし、いってしまえば、母親に保護してもらって生活している。どんな家庭にもいえることだが、子どもの行動方針を定めるのは、子ども自身ではなく、親だ。この家庭にも同じことがいえるとは限らないが、僕が見てきた限り、その点についてはあまり差異はないように思える。

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