第28話

 日が落ちると一気に寒くなるから、僕はジャケットを羽織った。リィルもコートに身を包む。階段を下りて、リビングにいるクレイルに外に出る旨を伝えると、彼女は了承してくれた。ただし、夕飯の時間までには戻ってくるように、と言われた。まるで子どもを諭すような言葉だったが、今までそんな言葉をかけられたことはなかったから、僕はなんだか嬉しくなった。クレイルとしては、ココやヴィと一緒に食事をとってもらいたいのだろう。調理の分割や、食事の保存など、作業量が増えるのが嫌だというのもあるかもしれないが、それ以上に、子どもたちとのコミュニケーションを望んでいるのだと思われる。


 靴を履いて玄関のドアを開けると、強い風が吹きつけてきた。空は大分曇っている。雨が降りそうな感じではなかったが、空気は冷たかった。


 家の正面から続く一本道を、僕はリィルと一緒に歩き始める。ほんの数時間前にここに立っていたことを思い出して、そのときと情景が変化していることに、僕は多少戸惑った。都会に比べて、環境の影響を強く受けるこの辺りでは、変化の度合いが大きいようだ。


 暫くの間、リィルは何も話さなかった。ただ、表情はいつもより険しかった。やはり、考えていることがあって、それを僕に聞かせたいのだ。いや、聞かせたいとは思っていないかもしれないが、端的にいえば、傍にいる誰かと情報を共有したい、という感情だろう。明確な結論が出なくても、近くにいる誰かと意見を交換し合うだけで、不思議と安心できる。一人で電車に乗っているより、知らない人間でも誰かがいた方が落ち着くのと同じだ。


「今日は、何をして遊んだの?」


 緊張を解す意味も込めて、僕はリィルに質問した。


「え?」少し応答に遅れたが、彼女は答えた。「ああ、うん……。えっと、今日は、お飯事をした」


「え、お飯事?」僕は訊き返す。


「うん……。私が母親役で、ココとヴィが、子ども役」


「へえ……。うん、まあ、配役としては、適切だと思う」


「うん」


「え?」


 沈黙。


 足もとはよく見えない。懐中電灯を持ってくるべきだった、と僕は後悔した。ココから受け取ったそれは、実際にはほとんど使っていない。夜に目を覚ましてトイレに行くことは、僕の場合あまりないからだ。


「私、一瞬だけ、自分が母親役をやることに、躊躇したんだ」リィルは説明した。「彼女たちの、本当の母親が病気のときに、そんなことをしていいのかって……。まるで、二人がクレイルの代わりになる誰かを求めているような気がして……」


「母親と別れるのが、寂しいということ?」


 リィルは黙って頷く。


「それはそうだよ。きっと、そういう気持ちもあったんだろう」


 そこで、リィルは首を振った。


 僕は彼女を見る。


「何? どういうこと?」


 僕が尋ねても、彼女はこちらを見なかった。


「二人は、母親がいなくなると知っていても、全然寂しそうなんかじゃなかった」リィルは話した。「いや、えっと……、クレイルは、まだ二人には話していないんだろうけど、でも、あの二人は、そういうことが実際に起こっているのを、なんとなく理解している。でも……。それでも、寂しそうにはしていない。たしかに、私達が来たことで、それまでよりは母親と接する機会は少なくなったけど、それがすぐに終わるって、分かっている。私達がいなくなれば、また、いつも通りの生活に戻れるから、大丈夫だって……」


「ごめん。もう少し、分かりやすく説明してほしい。いや、その……、僕の理解力が足りないんだと思う。察する能力が、僕にはないから……。でも、なんだか、今のままじゃ、話がぼやけているよ」


 リィルはこちらを向いた。


「そう、ぼやけているの」彼女は頷く。「私達と、彼女たちが見ているものは、たぶん違う。そう……。何かがずれている。ぼやけている。そんな感じがする」


 僕は立ち止まった。


 リィルも歩くのをやめる。


「……どういう意味?」


 リィルはこちらを振り返り、僕の顔をじっと見つめた。


 瞳は定まっている。


 彼女は僕を捉えている。


 僕は、彼女に捉えられている。


 彼女の瞳の向こう側に何か見えないか、模索してみたが、駄目だった。


 やはり、リィルは何かに気づいたのだ。


 しかし、それを隠している。


 言いたくないのかもしれない。


「君が言いたいことは分かった。つまり、僕と君が事実だと思っているものが、本当はそうではない、ということだね?」


 リィルは目を逸らす。


「うん……。そう、かな……」


 僕は息を吐いた。自然な欲求と、意識的な動作が、混ざった仕草だった。


「まだ言いたいことがあるなら、僕は聞く。それが、現状に変化を齎すものだとしても、知らないよりは、知っておいた方がいい」


 沈黙が降りる。


 一度視線を泳がせて、リィルは再び歩き始めた。このまま進めば森の中に入ることになる。


 僕も彼女のあとについて歩き始めた。

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