第6章 ポストに投函する作業
第26話
三日が経った。
クレイルの想定では、上手くいけば今日で作業が終わるはずだったが、長引いてしまい、さらに二日をかけることになった。もともと一週間の契約なので、期間を延長したことにはならない。
僕もクレイルも執筆には慣れて、一定のペースを保てるようになった。万年筆を使って執筆するのは相変わらず疲れるが、文字を丁寧に書けるようになった。クレイルの話す速度と、僕の手を動かす速度は上手く合うようになり、特にストレスなく作業を進めることができた。
子どもたち二人とリィルの関係も良好のようだ。二人はリィルを信頼したらしく、毎日三人で遊んでいた。外に出かけることもあれば、室内で絵を描いたりすることもある。ココは、最近本を読むようになったらしく、リィルとその手の話題で盛り上がっていた。ヴィは外で身体を動かすのが好きなようで、運動能力に長けたリィルに追いつくのに、必死になって走り回っていた。
午後を迎え、応接室で僕はクレイルと向かい合っている。
羊皮紙に付着したインクは、文字の形を成しているものの、僕にはその意味は伝達されない。文や言葉の内容を意識の外に排除するのにも、僕はもう大分慣れていた。本当はあまり良いことではないが、作業を効率的に進めるためには仕方がない。
僕とクレイルの間には、本来なら何の関係もない。この仕事を受ける前は互いのことは知らなかったし、この仕事が終われば、きっと何の接点もなくなる。一週間という限られた期間の中で、偶然成立した脆弱な関係といえる。だからといってその関係を軽視して良いわけではないが、彼女の境遇に感情移入してばかりで、こちらの役目を果たせなくては意味がない。それが、僕が上述したような処置をとった理由だ。やるべきことを達成するためには、ほかのことを犠牲にする必要がある。
「大丈夫ですか?」
手紙を書いている途中で、クレイルが僕に尋ねてきた。
「ええ、大丈夫です」顔を上げ、僕は頷く。「どうぞ、続けて下さい」
クレイルはにっこりと笑い、遺書に残すべきことを再び話し始める。
考えてみれば、とても奇妙な作業だった。本来なら一人でやることを、わざわざ二人で分担して、それぞれが別々の役割を担っている。分担しても、必ずしも効率が上がるわけではない。その反対の場合もありえる。
人間が一人でできることには限りがある。だから、様々な組織で、様々な役割が生み出されてきた。その典型例が家族だろう。夫婦の間では、外部に働きに出かける者と、内部で家事を行う者で、作業の内容が分けられている。それは必要だからそうしたのであり、したがって、どちらも欠けてはならない。どちらも欠けてはならないのなら、どちらの立場も対等でなくてはならない。一方が欠ければもう一方は困る。
しかしながら、これまでの歴史の中で、両者の間に格差があったことは疑いようのない事実だ。下品な表現をしてしまえば、一方は偉く、もう一方はそうではないと考えられていた。そして、その考え方が正しいという風潮が、随分と長い間続いた。最近になってようやく緩和されるようになってきたが、それでも、そうした考えが無意識の内に意識されている場面も、まだまだ沢山認められる。
結局のところ、人間も動物に変わりはないのだ。
そうした分担は、自然界に生きる動物のそれを起源としている。
それなら、人間らしさとは、そうした分担を放棄することのはずだ。
では……。
人間ではない僕たちには、それ以上にどんなことができるだろう?
くだらないことを考えている内に時間は過ぎ、今日の分の作業は終わった。クレイルに内容を確認してもらい、今日書いた分を昨日の分と合流させる。
リビングに戻ると、まだ三人の姿は見つからなかった。僕は玄関に向かい、家の外に出る。クレイルはリビングでお茶の用意をしていた。
ずっと向こうまで草原が続いている。家の前から伸びた一本道が、森の中に至って消えている。今日は強い風が拭いていて、春の訪れを少しだけ感じさせた。空は晴れているが、雲が多い。密度を持たないような、季節相応の薄い雲だった。
僕は、傍に立つ柱型の照明に寄りかかる。
自然と深い溜息が出た。
疲れているわけではない。
どちらかというと、安心や、安堵によく似た感情が、僕の胸中を支配している。
この場所にいると、とても落ち着く。この場所というのは、この玄関の前のスペースではなく、この辺り一帯という意味だ。
十分くらいした頃、リィルが二人と手を繋いで戻ってきた。
ココとヴィは燥いでいるわけではなかったが、比較的自然な表情をしていた。
「ただいま」リィルが言った。
僕は頷く。
一緒に室内に戻る。リィルと二人は洗面所で手を洗い、それぞれリビングの所定の席に着いた。
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