第19話
読書を中断して、僕はベッドから立ち上がる。リュックの中から翻訳を行うためのデバイスを取り出して、電源を入れた。
「今日の夜ご飯、何かな」リィルが呟く。
「さあね」僕は応えた。「君が気にしても、仕方がないじゃないか」
「秋刀魚だといいな」
「秋刀魚? どうして?」
「なんか、格好いいじゃん、秋刀魚って」
起動したデバイスを操作しながら、僕は尋ねる。
「どういうところが?」
「え、なんか、フォルムが」リィルは説明した。「特に、塩がかかっていて、適度に焦げていると、より一層格好いいよね……。あと、お皿の端の方にカボスが載っていたりしたら、最高だと思う」
「うん、僕には、君のセンスは分からないみたいだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。ごめん」
「まあ、いいよ。本当は、理解してくれているって、信じているから」
「いいね、幸せそうで」
「そうでしょう? 私、幸せなんだあ……」
デバイスをデスクまで運んで、そこに座る。両手をキーボードの上に載せて、タイピングを始めた。実のところ、僕はあまりキーを打つのが得意ではない。職業柄、平均よりは上かもしれないが、何度も打ち間違えるし、適切な言い回しを瞬時に連想できなかったりする。だから推敲は欠かせない。
「何、書いているの?」
僕の傍に寄って、リィルが尋ねた。
「手紙」
「手紙? 誰に向けて?」
「誰かに」
「え?」
首を伸ばして、リィルはディスプレイに表示される文字を見つめる。書かれた文章を小さな声で呟きながら、順番に内容を理解していく。
「え、あの、本当に、誰に向けて書いているの?」
「手紙を書く練習をしているんだ」タイピングを続けながら、僕は答えた。「クレイルと作業をしていて、ちょっと、自分の能力が足りないかな、と思うところがあったから……。なんていうか、今の内に、頭の中にそういう回路を作っておこうと思って……」
「ふうん……。努力家なんだ」
「そうだよ。知らなかったの?」
「え、何で知っているわけ?」
手書きとはスピードが違うから、本番でこの回路が使えるとは限らない。ただし、瞬間的に思い浮かぶ言葉の候補が増えれば、それだけ可能性は広がるから、書きやすくなるのは確かだ。すでに書かれた文書を翻訳するのと、人が話す言葉をリアルタイムで記すのでは、選択候補となる語の集合が微妙に違うから、今の内に、それらを引き出す練習をしておこうと考えたのだ。
リィルは、興味を失ったのか、僕の傍を離れてふらふらし始める。彼女は基本的にいつもふらふらしている。大人しくしているときといえば、本を読んでいるときくらいだ。読書をするときは、さすがに神経を研ぎ澄まさないと駄目なようで、彼女はいつにも増して真剣な顔つきになる。
二段ベッドの梯子を上り、リィルは自分の布団に寝転がった。もっとも、ベッドは僕の背後にあるから、彼女がしていることの詳細は分からない。
万年筆を使ってみて、分かったことがいくつかあった。まず一つは、意外とインクが長く保つということだ。ペン先に適宜付けるだけだから、すぐになくなるのかと思っていたが、一行から二行書くくらいなら、擦り切れずに最後まで書き通すことができた。もちろん、僕は初心者だから、必要以上に圧をかけすぎているというのもあるかもしれない。それを改善できれば、もう少し長い時間書くことができるようになるだろう。そして、もう一つ、万年筆の方が、ボールペンよりも書きやすいことが分かった。紙の種類にもよるだろうが、万年筆はペン先が常に尖っているので、丸まってしまうボールペンよりは、書いているときの感触はしっかりしている。手書きで文字を記す機会はほとんどないが、試しに一本くらい万年筆を買ってみても良いかな、と僕は考えていた。
「ああ、退屈……。なんか、話してほしいなあ……」
背後から、天災のごとくリィルの呟く声が聞こえてくる。
僕は彼女の独り言を無視する。
「ねえ、聞いている?」
仕方がないので、僕は答えた。
「うん、少しは」
「何か、面白い話、ない?」
「それね、デートの最中に言うのは、アウトなんだって」
「今は、デート中じゃないから」
「面白いものは、自分で見つけるものだよ。そんな、人を頼ったって、誰も何もしてくれない」
「あ、そういえば、私達、全然、デートとかしたことないじゃん」突然声を明るくして、リィルは話した。「ねえ、今度、デートしようよ、デート」
「どこで?」
「え、どこって言われても……。うーん、どこかなあ……。やっぱり、デートといったら、遊園地とか?」
「僕は、遊園地には行きたくない」
「そもそもさ、デートって、目的地を決めてするものじゃないでしょう」リィルは説明する。「なんか、こう、漂う感じにふらふら歩いて、その時間を楽しむものなんじゃないの?」
「デートをしたことがないから、僕には分からない」
「絶対に、そうだって。ねえ、だからさ、今度、そんな感じで、デートしようよ」
「すれば?」
「は?」
「いや、君がしたいというなら、僕は付き合うよ。でもね、たぶん、上手くいかないと思う」
「どうして?」
「僕たちには、似合わないから」
「そんなことないよ。というか、似合うとか、似合わないとか、そういう問題じゃないし。楽しいか、楽しくないかでしょう?」
「じゃあ、たぶん、楽しくない」
「なんでそんなこと言うわけ?」
「僕が、つまらない男だから」
「いいじゃん、そんなの。私がスーパー面白い女だったら、釣り合いがとれるってことでしょう?」
「君には、自分がスーパー面白い女だという自信があるの?」
「ないけど」
「いや、何を言っているのかな、君は」
「だから、これから面白くなるっていう話をしているの」リィルは豪快に話した。「第一さ、人のこと、面白くないとか、よく平気で言えるよね。まったく……。本当に、酷い人なんだから」
「そんなことは言っていないじゃないか」
「同じようなこと、言ったでしょう?」
「言った」
「ほら、言ったんじゃん」
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