第18話

 五分ほど待ってみたが、リィルは部屋に戻ってこなかった。おそらく、先客がいなかったから、そのまま入ることにしたのだろう。


 僕は部屋から出て、クレイルが寝ている部屋に向かった。しかし、ドアを開けて室内を覗いてみても、そこに彼女の姿はなかった。たぶん、僕たちが眠っている間に起きたのだ。今は下で夕食の準備をしているのだろう。


 手伝った方が良いかと思ったが、まだ来て二日目なので、余計なことをするのはやめておいた。もう少し時間が経ってから、それとなく申し出た方が良い。先ほど、クレイルには、任せて下さい、みたいなことを言ってしまったが、もしかすると彼女を困らせてしまったかもしれない。


 リィルが戻ってくるまで、僕は本を読んで過ごすことにした。タッチパネル式の電子書籍リーダーを取り出して、電源を入れる。


 今日は世界の歴史に関する本を読んだ。歴史の中でも、特に宗教にフォーカスしたものだ。僕はあまりこの手の本を読んだことがない。お世辞にも歴史に詳しいとはいえないし、宗教のこともまったくといって良いほど知らない。だからこそ、こういう本を読んでみようと思った。知らないことを知る喜びは、何事にも変えがたい。


 宗教に対する固定的な印象を、僕は特には持っていない。けれど、世間的にはそうではないらしい。ほとんどの人間は、宗教という言葉を耳にするだけで嫌悪感を示す。特定の宗教に入っているというだけで、人として良く見られなかったり、場合によっては差別の対象になりかねない。僕にはその感覚は分からなかった。宗教という名前で枠組みを決めているだけで、個人が何を信仰しようと、それはその人の自由のはずだ。僕は特に何も信仰はしていないが、それでも、こうしたら成功するといった、ある種の信念のようなものは抱えている。宗教というのも、本来はそういうもののはずだ。自分ではどうしようもない問題を、少しでも解決に導けるように、軌道修正してくれるようなものと捉えているが……。


 宗教ほど、世界に浸透しているものはないし、長い歴史を持っているものはない(あるかもしれないが、僕は知らない)。ただ、宗教は、どちらかというと、平和よりも戦争を引き起こす原因となるのが多かったというのは、確かな事実だ。だからといって、そんな過去をいつまでも引き摺るというのも、人間としてどうかと思う。それが現代まで続いているから、なおのこと不思議に僕には思える。


 ディスプレイをスライドして、ページを捲る。電子の世界にページという区分はないが、この端末では擬似的なページが再現されている。きっと、かつて現物の本を読んでいた人へのサービスのつもりだろう。


 宗教に対して、僕が考えていることは、ただ一つだけだ。


 それは、神様を信じるより、自分を信じた方が手っ取り早い、ということ。


 訪れるかも分からない幸福を願うより、自分の手で現状を変える努力する方が、簡単だということだ。


 この本の筆者は、特にそういうことは述べていなかった。というよりも、筆者の考えのようなものはあまり記されていない。これまでの歴史の中でどのようなことが起こったのか、その事実が客観的なタッチで記されている。入門書としては最適だったので、初心者としてはありがたい限りだった。


 読書を始めて三十分くらい経過した頃、階段を上がる音が聞こえた。


 誰かと思ったが、ドアを開けて現れたのは、リィルだった。


「おまたせ」


 部屋に入ってきて、彼女は言った。


 僕は軽く頷く。


 バスタオルで濡れた髪を拭きながら、彼女は僕の隣に腰を下ろす。そのまま顔を寄せ、僕の手もとにある端末を覗き込んだ。リンスの匂いがして、僕は、ああ、リンスだな、と思った(リィルだな、とは思わなかった)。


「また、そんな、難しい本を読んでいるんだ」彼女は言った。「疲れない? それで、リフレッシュになっているの?」


「適度に頭を使うと、リフレッシュになるらしい」


「そうなの?」


「たしか」


 顔の向きを戻して、僕は読書を再開する。


「お風呂、どうする?」


 リィルに聞かれて、僕は反射的に腕時計を見る。確認しなくても分かっていたが、いつもの癖で見てしまった。


「もう、余裕がないから、あとで入るよ」


「余裕って?」


「時間がない」


「いや、あるじゃん。夕飯、八時からなんだから」


「今日は、長風呂をしたい気分なんだ」


「何それ」リィルは笑った。「長風呂? 大丈夫? そんなに疲れているの?」


「いや、特に疲れていないけど……。……うん、まあ、ただ、なんとなく、長風呂がしたいんだ」


「意味が分からない」


「そのままの意味だよ」僕は話す。「ほかに、どんな意味が想定されるの?」


「風呂に入ったまま、眠りたいとか、そういう感じ」


「余計、意味が分からなくなった」


「うん、たしかに」

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