第4章 紙を交換する作業

第16話

 家に戻ると、クレイルの姿が見当たらなかった。リビングにいる二人にそれとなく訊いてみると、彼女は布団で眠っている、との答えが返ってきた。体調を崩して休養しているらしい。


 僕とリィルは自分の部屋に戻ろうとしたが、その途中で、廊下を右に曲がって、クレイルたちの寝室に向かった。危篤の状態の彼女が、一人で大丈夫だろうかと心配になったからだ。


 ドアを少しだけ開けて、外の光が室内に入らないように工夫する。部屋の照明は消えていたが、向こうの方にベッドがあるのが遠目に分かった。


 ベッドの上に、誰かの姿が見える。おそらく、それがクレイルだろう。


 暫くの間、僕たちは入り口で様子を観察していたが、特に異常は見られなかった。


 しかし、ドアを閉めようとしたとき、声が聞こえた。


「そこにいるのは、誰?」


 廊下に向きかけていた身体を戻して、僕は部屋の中を再び覗く。


 クレイルは、身体を起こして、僕たちの方を向いていた。


「僕です」ドアの隙間を大きくして、僕は自分の姿が見えるようにする。


「ああ、貴方でしたか……」クレイルは、笑顔になって一度頷いた。「ごめんなさい。子どもたちだと思ったの」


「彼女たちなら、下にいます」


「ええ、そう……。仲よくしているのなら、それでいいわ」


「大丈夫ですか?」


 僕は部屋の中を進み、クレイルの傍に近寄る。


「大丈夫です」小首を傾げて、クレイルは言った。「ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません。ただ、少し疲れたから、眠っていただけです」


「家事とか、無理をしていませんか?」僕は話す。「あまり、負担になっているようだったら、僕たちがいる間だけでも、代わりにやります」


「いいえ、それには及びません」


「何かあったら、言って下さい」


「どうもありがとう」


 クレイルは、もう少し眠るといって、再び布団に身体を戻した。


 僕はドアを閉め、リィルと一緒に自室に向かった。


 部屋の中に入って、僕はベッドに腰をかける。リィルは窓の傍に寄って、外を眺め始めた。


「何の病気なのかな」


 窓の外に顔を向けたまま、リィルは呟いた。


 僕は顔を上げ、彼女の後ろ姿を見る。


「さあ……」


 危篤ということは、治療の方法がないということだ。つまり、既知の病気で末期の状態なのか、あるいは、未知の重病にかかっているのか、どちらかということになる。


 クレイルは、一応治療は続けているみたいだった。けれど、それももう諦めているような感じがする。食事の際に薬を飲んでいるのを見たが、それは、子どもたちに悟られないように、そうしているようにしか思えない。


 クレイルは、自分の状態を、まだ子どもたちに伝えていないのかもしれない。


 きっと、そうだろう。


 でも、彼女は、自分が死亡したあとの状況を想定して、対策をとっている。


 僕が代筆を頼まれた遺書も、その一つだ。


「誰かの遺書を、代わりに書くのって、辛くない?」


 突然、リィルがこちらを向いて僕に質問してきた。


 僕はずっと彼女の姿を見つめていたから、目が合った。


「うん、まあね」僕は答える。


「辛くなったら、言ってね」


 リィルの言葉を聞いて、僕は驚いた。


「君にそんなことを言われると、変な感じがする」


「え、そう?」


「うん、少し」


「いつも、言っているつもりなんだけど……」


 僕は苦笑いをする。


「どうしたの? そんなに気を遣っちゃってさ。何か、改心でもしたのかな?」


「いや、なんか……。君が、さっき、クレイルにそんなことを言っているのを聞いて、私も言ってみようかな、と思って……」


「ああ、そういうこと」僕は頷いた。「うん、誰かに心配されるのも、悪くはないね」


「そう? よかった」


「でも、心配される原因がないのが、一番いい」


 リィルは顔を背けて頷く。


 今、一番辛いのは、二人の子どもたちかもしれない、と僕は想像する。もちろん、クレイルだって辛いだろうが、彼女は母親だ。彼女は支える側で、誰かの手を必要としているわけではない。けれど、ココやヴィは彼女に支えられる側なのだ。そんな大切な誰かが急にいなくなってしまったら、きっと、どうやって生きていけば良いのか、分からなくなるだろう。


 それだけではない。


 子どもは、そんな理屈など関係なく、母親が好きに違いない。母親に甘えたいし、いつまでも傍にいてほしい。それは、母親もそうかもしれない。いつまでも子どもたちに甘えられたいはずだ。


 好きという感情が、この小さな社会を支えている。


 しかし、それは、もうすぐ崩れてしまう。


 その前段階に、自分が関わっている。


 そう考えると、たしかに辛かった。


 そう……。


 だから、考えないように、僕はプロテクトを張ったのだ。


 しかし……。


 その判断が最善のものだったのか、僕は今になって疑いを持ち始めていた。


 いや、その疑いは、決定を下す前から、すでに僕の中にあった。


 感情を押し殺すのは、良くない。


 僕の中には、彼女たちに感情移入して、一緒に悲しみたいという欲が存在する。


 しかし、僕は他人だ。


 そして、これは仕事だ。


 このジレンマが、僕の行動速度を遅くしている。


 全然合理的ではないシステムだ。

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