第3章 インクを擦り付ける作業

第11話

 驚いたことに、遺書の執筆に使うのは、万年筆だった。そして、万年筆で書くとなれば、必然的に羊皮紙を使うことになる。僕は万年筆を使ったことがないので、少々戸惑ったが、クレイルが使い方を教えてくれた。ただし、彼女は文字を書くことができない。使い方というのは、どのように持って、どこにインクを付けて、どれくらいの圧をかければ良いのかといった、機能的な説明でしかない。その万年筆は、彼女の父親が使っていたものらしく、その父親も、彼の父親から受け継いだらしかった。


 僕は、今回の依頼を受けるに当たって、仕事中は自己の感情をシャットアウトすることに決めた。とはいっても、完全に打ち消すことはできない。あくまで、意識的に、自分が感情的になるようなことがないように心がけるだけだ。クレイルの口から発せられるのは、ただの音であり、その音を表す記号を、羊皮紙に万年筆で一つずつ記していく。そういう単純な作業なのだと、自分に言い聞かせることにした。


 本当なら、そんなことはしたくないし、するべきではない。けれど、僕が感情的になってしまって、仕事が進まなくなっては意味がない。まずは、与えられた仕事をきちんとこなすべきだと判断して、そのような方針を立てるに至った。


 クレイルが話す内容を理解しつつも、それは小説の一節、あるいは音楽の一パートなのだと、そんなふうに考えながら、ペンを持った指を動かす。話し言葉を書き言葉にする際の留意点は忘れないように、適宜言葉の組み合わせ方を変えたりする。クレイルは、僕に気を遣ってくれているのか、比較的ゆっくりとした速度で話してくれた。タイピングであれば、普通に話す速度でもついていけると思うが、万年筆でインクを足しながらとなると、必然的に執筆速度は何倍も遅くなる。


 意識したせいか、僕は、クレイルが話す内容そのものを、あまり覚えていなかった。


 よく晴れた春の近い日の午前。


 ドアが閉ざされた応接室。


 対面の硝子戸は、今はいくつかが開けられていて、ときどき微風が吹き抜けていく。


 草に含まれる水分のような、そんな鼻腔を擽る匂いがした。


 足もとには絨毯。


 木製の重厚なデスクに、万年筆の先が当たる感触。


 まるで呪文を唱えるように、クレイルは言葉を一つずつ紡いでいく。


 文章は、細かくすれば、やがて全体としての意味を成さなくなる。だから、彼女の確かめるような速度が、僕には却って助かった。


「大丈夫そう?」


 途中で、クレイルが僕に確認する。


「ええ、おそらく……」僕は答えた。「少し、手が疲れますけど、すぐに慣れると思います」


「指でペンを持って書くのって、素敵ですね」


 僕は、下を向いていた顔を上げて、クレイルを見る。


「そうですか?」


「そう思いません?」クレイルはにこにこ笑っている。「今では、文字を書くときは、ほとんどキーボードを使いますけど、かつての人々は、こんなふうに、一文字一文字に気持ちを込めて書いていたと思うと、私はなんだかわくわくします」


「なるほど……」


 自分で言っておきながら、何がなるほどなんだ、と僕は思った。


 クレイルのような意見を言う人間は、今では大分少なくなった、らしい。らしい、というのは、僕も現代に生きる者なので、それが当たり前だからだ。ただ、少し前には、手書きの文化を残そうとする時期もあったらしく、その時代には、ありとあらゆるものが電子化されることに、反発する人間も多かったそうだ。今では、もう電子化が当たり前になっているから、誰もその点について意見は述べない。現代の生物が酸素を使を使って呼吸をすることについて、古代の生物はそうではなかったのに、いったい何事だ、と文句を言う者がいないのと同じだ。一度何かが当たり前になってしまえば、もう、誰もそれについて触れなくなる。反対に、当たり前から逸脱するものを、排斥しようとする勢力が生まれる。


 午前中は、合計で、羊皮紙二枚分を書き終わるまで作業が進んだ。これが、遅いのか、早いのか、正直なところ分からない。三時間で書ける量としては、キーボードを使った場合と比較すると、当然少ない。


 クレイルに尋ねると、彼女は、遺書に残したい内容を、すべて想定しているわけではないと答えた。書きながら思いつくことや、この一週間の内に起きた事柄によって連想される内容など、あとで追加すべきことも増えるだろうから、その分の余裕を持たせている、と説明した。たしかに、その通りだろう、と僕も思った。


 今日は初日なので、クレイルと相談して、午後は作業をしないことにした。僕の指もかなり疲れていたし、クレイルも疲れているに違いなかった。

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