第9話
午後十一時になったタイミングで、部屋の照明が暗くなった。
僕も、リィルも、天井に顔を向ける。
しかし、暗くてお互いの表情は見えない。
懐中電灯を手に取って、僕はそれで周囲を照らした。
「もう、寝ろってことかな……」僕は呟く。
「うん……」リィルは、それまでベッドの縁に座っていたが、動いて布団に入ったみたいだった。「なんか、寒くなってきたし、ちょうどよく寝られそう」
「クレイルも、あの二人も、もう寝たのかな」
「そうかもね」
沈黙。
僕は携帯端末の電源を切り、それをリュックに仕舞った。
「じゃあ、寝よう」
僕も、布団に潜り込む。
「おやすみ」
挨拶をしたが、リィルからの返事はなかった。
すぐ上にリィルがいるというのが、少し不思議な感じがした。いつもは、一つの布団で、僕たちは眠っている。別に、やましい考えがあるわけではない。事実として、いつもただ眠るだけだし、次の日になれば、普通に目を覚まして、それぞれ生活し始める。
明日からの作業を、僕はぼんやりと思い浮かべた。作業のパターンは、主に二つ考えられる。一つは、クレイルが話した言葉を、僕がそのまま、あるいは適宜改変しながら、ペンを使って紙に書き写す、というものだ。そしてもう一つは、クレイルがワープロ機能を使って記した文章を、僕がもう一度手書きで書き直す、というものだが、後者の可能性は多分ゼロに近い。クレイルなら、きっと、自分の口から出た言葉が、そのまま紙に記されることを望むだろう。今日出会ったばかりで、何の根拠もない推測だっが、僕にはそんなふうに思えた。
どれくらいの量を書くのかということについては、具体的には知らされていない。ただ、少ないということはないはずだ。今回の契約期間は、一応一週間ということになっている。もちろん、延長したいという要望があれば、僕もそれに応じる。一週間、毎日何時間執筆するのか分からないが、手書きとなると、タイピングに比べてそれなりに疲労も溜まるはずだ。話し続けるクレイルの方も、疲れるに違いない。ましてや、彼女は危篤の状態にあるのだから……。
考えてみれば、不思議な話だった。もうすぐ最期を迎える人間に頼まれて、遺書を代わりに書く。こんな仕事をする機会は、なかなかないかもしれない。手紙の代筆となれば、それほど珍しくもないかもしれないが、遺書となると、少し話は違ってくる。僕は、そこに、それまである人間が存在した証を、残さなくてはならない。そんな重大なことをするのが、果たして僕のような者で良いのだろうか。
「もう、寝た?」
一人で考え事をしていると、頭上からリィルの声が聞こえた。
僕は、閉じていた目を開けて、彼女の声に応答する。
「いや、まだ」
「今回の仕事、大変そうだね」リィルは言った。「私も、子どもの世話をするのは、全然自信ないけど、君は、もっと大変そうだから、頑張ってね」
僕は、少しだけ笑う。
「まさか、君に、そんなことを言われるとはね」
若干不機嫌気味な声で、彼女は応える。
「別に、励まそうとしたわけじゃないからね。ただ、思ったことを口にしただけで……」
「純情なんだ」
「違う」
少し動くだけで、ベッドは軋んだ音を立てる。暗闇に、誰かの気配を感じるとは、つまり、人と物が接触した情景を連想させる音が、聞こえるということだ。
「まあ、でも、少し元気が出たよ。どうもありがとう」
「今まで、元気じゃなかったの?」
「いや、元気かどうかは分からないけど、とりあえず、やってみようという気にはなった、という意味」
リィルの笑い声が聞こえる。
「変なの」
「そう、僕は、変なんだよ、いつも」僕は話した。「もうすぐ人が死ぬというのに、それがどういうことなのか、全然分からないんだ。きっと、明日も、何でもないような顔をして、クレイルと一緒に作業をするんだろうね。その、彼女が、死ぬ本人だというのに」
リィルは黙り込む。
ウッドクロックにも、もちろん、寿命はある。それは僕も同じだ。
しかし、出生が人工的なものとなれば、生きている、という状態の意味が違ってくる。
「遺書って、何のために書くのかな?」
暗闇に向かって、リィルが呟く。
「さあ……」
「君は、書く?」
「遺書を?」
「そう」
「誰に向けて、書いたらいい?」
「私に」
「書こう書こうと思っている内に、結局書けなくて、死ぬと思うよ、僕は」僕は言った。「だから、多分書かないと思う。書こうと思っていても、書けないだろうね」
「じゃあ、この仕事が終わったら、すぐに書いて」
「どうして?」
「私を、一人にしないで」
「じゃあ、一緒に死ぬ?」
動く気配がして、上からリィルが顔を出したみたいだった。
「一緒には、死なない」
僕は上を見つめる。
「じゃあ、僕の分まで、長生きするんだ」
リィルは、顔を引っ込めて、再び布団に入る。
それ以後、彼女は口を開かなかった。
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