第5話

 彼女が求めたのは、一言でいえば、遺書の執筆依頼だった。クレイルの話によると、彼女は危篤の状態で、もうあまり長い間保たないらしい。医師の診断によると、長くて三ヶ月程度、短ければあと一ヶ月ほどの余命しか残されていないとのことだ。だから、残された時間に遺書を執筆して、それを自分の子どもたちに渡したい、あるいは、保存しておきたいというのが、彼女の望みのようだった。


 遺書というものは、普通は自分で書くものだが、彼女の場合、手書きで直接文字を書くことができない。現代では、タイピングで文字を打つのが当たり前だから、手書きで文書を作成できる人間は少ない。そこで、代わりに誰かにやってもらおうと考え、僕たちに依頼をしたみたいだった。たとえ自分の手ではなくても、キーボードで打つよりは、誰かの手を借りて直接書いてもらった方が気持ちが伝わりやすいと考えた、とクレイルは説明した。


 話を聞きながら、なんだか面倒な依頼を受けてしまったな、と僕は思った。いや、人の命が関わっているのだから、面倒という言い方は酷いかもしれない。けれど、そんな重要な役目を自分が担うのかと思うと、多少なりとも気後れした。


 彼女の話は、驚くべき内容だったが、僕はそれを顔には出さなかった。このくらいの依頼は、よくあるとはいえないにしても、想定される内容の一つではある。僕の仕事は文書の翻訳だが、翻訳とは、他者が伝えたいことを、別の言語に置き換えて、ほかの他者に伝える行為だ。手紙の代筆というのも、立派な翻訳といえる。


「私からの説明は、以上です」一通り話し終えて、クレイルは言った。「何か、ご質問はございますか?」


「えっと、報酬の件なんですけど……」僕は訊いた。「食事や、入浴をさせて頂けるとのことですが、その場合……」


「ええ、もちろん、それを含めて、きちんとした額を支払わせて頂きます」


「それは、ありがとうございます。ええ、こちらとしても、助かります」


「当然です。その辺りは、ご心配して頂かなくても、大丈夫です」


 僕は頷いた。


 クレイルに案内されて、僕とリィルは階段を上がった。階段は玄関の正面にある。ちなみに、右手は応接室で、その部屋が庭と繋がっているみたいだった。


 二階にも、一階と同様に二つの部屋がある。僕たちが使わせてもらう部屋は、正面からみて右手にある部屋だった。つまり、応接室のちょうど上になる。一階のリビングとは対象的に、その部屋は古風な感じだった。備え付けの二段ベッドが左手にあり、右手の壁に窓がある。重たそうなデスクがドア側の壁に接するように置かれており、そのすぐ傍に本棚が置かれている。床も天井も、若干黒ずんでいる箇所があったが、汚れているという印象は受けなかった。


「申し訳ありませんが、この部屋は、長い間物置きとして使っていたものなのです」部屋の入り口に立って、クレイルが言った。「ですから、少々清潔感に欠けると思いますが……。ここを使って頂いてもよろしいですか?」


「ええ、けっこうです」僕は答える。


「気に入ってもらえました?」


「大いに」


 クレイルは、にっこりと笑って、部屋のドアを閉めた。夕食は、午後八時からとのことだった。風呂は、空いていればいつでも入って良いとのことだ。


 僕とリィルは荷物をベッドに置き、そのままそこに腰かけた。埃っぽいということはなく、普通に綺麗だ。汚れている、陰気だ、といった印象を受けるのは確かだが、それは印象だけのことで、実際にはそうではない。まるで、カフェインレスコーヒーみたいな部屋だな、と僕は思った。


「ああ、つっかれたあ」


 いきりなり大きな声を出して、リィルは後ろに倒れる。そのまま腕を大きく伸ばして、あああ、と言いながら欠伸をした。


「親切な人で、よかったね」僕は呟く。


「うん……。……でも、なんか、怪しそうだった」


 僕はリィルを睨む。


「君ね、もう少し、人を見る目を変えた方がいいよ。いつも、そんなこと言ってばかりじゃないか。疑うのも間違えてはいないけど、いつもそんな見方をしていたら、他人から信用されなくなる」


「いやいや、君の方こそ、もう少し疑いを持った方がいいって」リィルは起き上がり、僕を見つめる。「そんなに甘いセキュリティーだと、安々と騙されるよ。現に、君は、甘い人だし」


「甘い? 僕が?」


「私に甘いじゃん」


「え、そうかな……」


 リィルは再びベッドに倒れ込んだ。


「ま、いいよ。私と、君とで、セットだったら、きっと上手くバランスが保てるから」


「まあ、たしかにね」


「そこは、否定するところだよ」


「どうして?」


 暫く待ってみたが、リィルは何の返答もしなかった。


 僕は立ち上がり、部屋に唯一ある窓を開ける。窓が一つしかないから、陰気な印象を受けるのかもしれない。


 外はすでに暗く、遠くまでは見渡せなかった。眼下に、玄関前に立っている照明が見える。淡い光で、この自然に囲まれた空間にマッチしているように見えた。


 心地の良い風が、僕の頬をそっと撫でる。気持ちの良い空気。森が作り出す暗闇が、草原まで溶け込んで、この家を包み込んでいるようだ。まるで御伽噺のような立地条件だが、不思議と現実離れしている感じはなく、空間に上手く適応しているように思えた。


 いつの間にか、隣にリィルが立っていた。


「落ち着く場所だね」彼女が呟く。


 僕は黙って頷いた。


 部屋で寛いでいると、ときどき、階段を駆け下りたり、駆け上る音がした。たぶん、クレイルではないだろう。彼女があの格好で階段を駆け上っているとしたら、驚異的な運動能力だといわざるをえない。


「今晩は、久し振りに、騒がしい宴になりそうだ」


 ベッドに座ったまま、僕は呟く。


 リィルは目を閉じて横になっている。


 しかし、彼女は突然起き上がって、僕に言った。


「宴って、期待しすぎでしょう」


 僕は彼女を見る。


「最後の晩餐には、まだ早いか」

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