第二十章 優しい夢
窓の外では冷たい風が吹き荒び、屋敷の窓ガラスをガタガタ言わせている。枯れ葉は弧を描き、風によって巻き上げられ、窓ガラスに叩きつけられ、身動きが出来ない。
アシュリンがエレボスによって連れ去られて二日経とうとするが、サミュエルは一向に目を覚まさなかった。医師によると、主に疲労の蓄積による強制昏睡状態らしい。あとエレボスに掛けられていた術の影響で“気”を殆んど奪われてしまい、人型を保てるぎりぎり状態となっていた。サミュエルはエレボスによって文字通り「足止め」を食らってしまったのである。幸いにもそれ以外呪術系の魔術を掛けられてはいないようだ。
医師の手によりサミュエルは全身のあちこちに真っ白い湿布のようなものが隈なく貼り付けられている。これはサミュエルの体力回復と傷の治癒を促進させる為に医師が煎じた特効用の膏薬である。見た目はまるで
医師の見立てだと二・三日から三・四日程で覚醒出来、通常通りの生活に戻って良いとのことだった。刺傷は縫うレベルだったが瘢痕もなくもう殆んど治癒しているそうで、驚くべき効力である。
自室の寝台でこんこんと眠り続けるサミュエルの青白い顔を見ながら、ルーカスとテオドールはこれから先のことを相談していた。アシュリンを一日でも早く奪還しに行きたいのは山々だが、肝心のサミュエルが覚醒しないと実行に移しにくい。
「坊ちゃまぁぁぁ……目を覚まして下さいまし……」
ハンナがサミュエルの傍で肩を震わせ啜り泣いている。彼女自身医師による手当ては済んでおり、額、襟元、袖元から真っ白な包帯が覗いている。幸い骨折はなく脳にも異常はないそうだが、見るからに痛々しいことこの上ない。
「ルーカス様、テオドール様、私が居ながら申し訳御座いません。アシュリンさんをお守り出来ず、サミュエル坊ちゃまをこんな目に合わせてしまって……!! 嗚呼、私、お二人に合わせる顔が御座いませんわ……」
ルーカスはハンナを静かに宥める。
「相手が強過ぎたのだ。そんな中そなたは良くやってくれた。通常業務は非戦闘員であるそなたがシートン家の武器を用いての戦闘だなんて、久し振りで疲れただろう? 武器破損も無いようだし、怪我も重症ではなくて私は安心した。不必要な苦労をかけてしまってすまない。そんなに泣かないでおくれ」
ハンナは涙に濡れた顔を上げて答える。
「ルーカス様、私はテオドール様、サミュエル様お二人を我が子のように思っております。特にサミュエル坊ちゃまは幼い頃からずっとお世話しておりますから、今の坊ちゃまが気の毒で胸が張り裂けそうですわ。何とかして早くアシュリンさんを坊ちゃまの元に連れ戻して差し上げたい…」
ハンナは過去に夫と子供二人を亡くしている。その当時のことを思い出しているに違いない。それにハンナは実母を亡くしたアシュリンと母娘のような関係を築き上げている。守りたいのに守れなかったという思いがハンナを追い詰めている。
ルーカスはしゃくりあげるハンナの肩に手を置いた。
「そなたにはいつも感謝しておる。サミュエルもそなたを母親のように頼りにしているのか、まだどこか甘えているからな。これまでの骨休みと思って今の内にしっかり養生して欲しい。アシュリン殿を連れ戻すのは我々に任せ、そなたは自身の回復に努めておくれ。サミュエルも目が覚めた時、そなたの笑顔を見れば安心するだろう」
「……分かりました。坊ちゃまが目を覚まされたらマナの実スープをたんと
ハンナは目を真っ赤にしながらも微笑みを浮かべた。
アシュリンが拐われた翌日、サミュエル負傷の件を聞いたエドワードとザッカリーは慌てて見舞いに駆け付けたが、意識不明状態が続くサミュエルを見て言葉を失った。
ルーカスはエドワードとザッカリーにこれまでの事情を話した。ヘスティアー襲撃後からウィリアムをラスマン家から守る為、ガウリア家で匿っていたこと。ウィリアムは療養中でまだ充分な戦力になれないこと。ラスマン家が別龍族を騙ってガウリア家に手下と共に侵入し、アシュリンを拐ったこと。そしてそれを今迄二人に黙っていたことを謝罪した。
「いえいえ、僕はウィルが此方で元気でいたのが分かって良かったです。安心しました」
「しかし、ウィルとサムが戦闘不能状態にされるだなんて、とんでもない奴等ですね。しかも背後を取るような真似をするとは……エレボスという奴は卑怯者です。当主不在を狙い、自分は虚偽を騙ってサムを足止めし、その間に手下を書庫に忍び込ませて襲わせるだなんて、失礼にも程がある。目的の為には手段を選ばないだなんてけしからん奴等ですよ」
ほっと胸を撫で下ろすエドワードと無表情で拳をわなわなさせながら憤慨しているザッカリーの傍で、ウィリアムは机に拳をガンと打ち付けた。
「……あの時私が動ける状態だったらもっとサムを守ってやれたかもしれない。医師からまだ許可が出ず、思うように動けなかった。何て非力だ……」
流石のウィリアムも表情が暗い。テオドールはそんなウィリアムの左肩にぽんと手を置いた。
「私達が不在の時、弟の傍に居てくれて有り難う。君が居てくれたお陰で当家の被害もこの程度で済んだのだと思う。それに、君のお陰でアシュリン殿の居場所も把握出来たのだから、そう落胆せずとも良い。君の傷もサミュエルと同じ膏薬に変わってからもう通常通りの状態に近付いたと医師から聞いている。薬が間に合って、良かったな」
テオドールが話題を変えると、ウィリアムの表情がぱっと明るくなった。
「サムと違って私の場合は肉体的損傷の問題だけでしたし、この膏薬に変わってからあっという間に身体の調子も以前の調子に近付きました。この薬は凄いですね!驚きました。うちの復興サポートも本当に感謝しております。アシュリン殿奪還の際は全力で助力します」
ウィリアムは力瘤を作る仕草をしてにかっと笑った。テオドールは優しく微笑む。
「兎に角、サミュエルが覚醒し、動けるようになったらラスマン家に直ぐ行けるよう、各自準備をせねばならぬな。ラスマン家は何かと厄介な相手だ。当家だけでは手に追えない。エドワード殿とザッカリー殿にも是非御助力願いたい。頼りにしている」
ルーカスが依頼すると、エドワードとザッカリーは共に勢いよく首を縦に振った。
「分かりました。僕自身は今すぐにでも助力したいです。父から許可を仰いで参ります」
「私も同様です。共にラスマン家を抑え込んでやりましょう。うちからどれだけ兵を動かせるか確認してきます」
静かに眠り続けるサミュエルの顔を見て、テオドールは静かに思った。
――お前が自然と目覚めた時が戦闘開始の合図となろう。やはり持つべきものは友だな。良い友達を持って良かったな、弟よ。私の旧友達は近年の凶悪事件に巻き込まれ、全員所在不明のままだ。きっと生きてはおらぬであろう。お前の友人達を頼もしく思うよ、本当に。
――此処は……
その頃サミュエルは一人、歩いていた。確か自分は寝台で寝ていた筈。此処はどこだろうか。暖かくもないが寒くもない空間。真っ暗で、どこもかしこも見えない。
そんな中、声が聞こえてきた。
「サミュエル……」
――誰だろう。私を呼ぶ声が聞こえる。
「サミュエル……」
――アシュリンでもハンナでもない。どこか懐かしい声……
目の前がぼんやりと白く輝いたと思ったら、声の主がサミュエルの前にゆっくりと姿を表した。淡く光る月白色のドレスに身を包み、漆黒で艶のある髪を背まで伸ばし琥珀色の瞳を持つ、面差しがサミュエルと大変良く似た美しい女人だった。サミュエルの実母、ウィロウ・ガルシアである。
「母上……!? 何故此処に? 」
――私はセレネーに居るのではなかったのか?
サミュエルは驚いて周囲を見渡す。
ウィロウ・ガルシアは息子を静かに見つめつつにっこりと微笑む。ウィロウはサミュエルが四つの時に若くして病死した為、その当時の姿のままである。身の丈はアシュリンと同じ程度でサミュエルの肩位なので、サミュエルを少し見上げる姿勢だ。
「サム……久し振りね。すっかり大きくなって。あの頃貴方はまだ四つだったから……あれから十四年位経つのかしら? 立派になったわねぇ。会えて嬉しいわ。乳母はハンナさん……だったかしら。私の代わりにここまで立派に育ててくれて、出来たらお礼を言いたいわね」
ウィロウ・ガルシアはサミュエルの頭を撫でながら優しく微笑む。
「母上、此処は何処ですか? 誰かに呼ばれた気がして歩いて来たのですが」
「此処は夢の中だと思うわ。きっと貴方の夢ね。その中でも、特に悩みがある時に迷い込む夢。私も誰かに呼ばれた気がして歩いていたら、貴方が見えたの。微睡みながら今迄ずっとガルシア家みんなのことを見てきたけど、みんなも何とか元気そうね。テディもルーカスそっくりになってきたようだし。出来たら会いたいけど……いつか会えるのを楽しみにしているわ」
――母上を呼ぶ? 呼んだ記憶はないが。
「何はともあれ、折角会えたんだもの、少しお話ししましょうか。貴方は今悩んでいるようだから」
ウィロウはサミュエルの瞳が色褪せているのに気が付いていた。
「悩み……? 」
「悩みがなければ、貴方が此処に来ることはないと思うの。私が思うに……あの方のことではないかしら? 貴方が月白珠を渡した」
ウィロウがサミュエルの胸元を指差した。サミュエルははっとなった。
「小さい頃貴方はとっても大人しい子だったけど、月白珠を渡す相手とかなり早く出会えたようね」
サミュエルは表情が暗くなった。瞳に悲痛な色が滲み出ている。
「私が彼女に月白珠を渡したいと思った気持ちに嘘はないです。今でもその気持ちは変わりません。しかし、月白珠を渡したばっかりに彼女は龍族間の騒動に巻き込まれてしまい、今私の傍に居ないのです。私のせいで危険な目に合わせてばかりで……私と関わり合いがなかった方が彼女にとって良かったのではないかとつい考えてしまうのです」
ウィロウは相槌を打ちながら聴いている。
「確かその方、貴方が助け出して屋敷に連れてきた人間のお嬢さんよね? とても良さそうな娘さんね。でも、私から見てもただの人間ではなさそうだという印象を受けるわ。あの月白珠を発動させる力を持っているようだから」
「母上もやはりそう思われますか」
「でもあの時貴方が彼女に月白珠を渡してなければ、彼女は燃え盛る家の柱の下敷きになって、既に死んでいたわ。貴方の判断は間違っていなかったと思う。それに伴うあれこれの出来事は……運命としか言いようがないわね」
ウィロウはサミュエルの左肩をぽんと叩いた。
「避けられない運命……ですか」
「そう。試練ね。貴方が乗り越えねばならない試練。私がテディや貴方と殆んど一緒に居てあげられなかったのも、きっと運命だったと思っているわ。本当はルーカスと一緒に貴方達の成長を直に見守ってあげたかった。ルーカスは『心配せず私に任せよ』と泣き続ける私の枕元で最期までずっと言い続けてくれたけど、幼い息子二人を遺して去らねばならない母親としては本当に辛かった。ハンナさんは実の子供のように貴方達を思ってくれているみたいよ。安心してお任せ出来る、良い乳母と出会えて良かったわね」
「ええ。ハンナには本当に感謝しています。今回の騒動で随分迷惑をかけてしまって申し訳ないです」
「生きていると、思い通りにならないことばかりだもの。仕方がないわ。死んだらもう何一つ変化がないのよ。悩み苦しむことも何もないから。それよりアシュリンさん……だったかしら。貴方ととても縁が強い方のようね」
「ええ。初めて会った時も、どこか懐かしい気がしました」
「サム。早く、アシュリンさんを迎えに行っておあげなさい。きっと貴方が来るのを首を長くして待っているわ。テディやハンナさん達もみんな、貴方が目覚めるのを今か今かと待ち望んでいる筈よ。呉々も一人で背負い込まないように」
サミュエルはふと耳を済ませた。誰かがサミュエルを呼ぶ声が聞こえる。
「……声が向こうから聞こえて来ました。あれは兄上……? それともウィル……? 」
ウィロウは少し寂しそうな色を含んだ笑顔を見せるとサミュエルを抱き締め、身体を離すとサミュエルの頬にその手をあてた。ウィロウの目が少し潤んでいる。
「もう少しで貴方は、目覚めるわ。寂しいけどこれでさよならね。ルーカスとテディに宜しくね。私もほんの少しは親らしいことが出来て良かった。生きていると色々あると思うけど、どんなことがあっても、自分が大切に思う相手と一緒に立ち向かって行くのよ。死んでしまったらそれすらも出来ないから。私の可愛いサム、ルーカスと一緒で私は貴方を愛している。空から貴方達の幸せをずっと見守っているから、これからも頑張って生きるのよ」
「分かりました母上、どうも有り難うございました。彼女を必ずや連れ戻してみせます。みんなの力をかりながら」
サミュエルの瞳に色が戻った途端、手を振るウィロウの姿がぼやけ、目の前が真っ白になった。
暫くして、眼の前に蜂蜜色の髪が流れているのが目に入った。
「サム!」
「……漸く意識が戻ったようだな。父上を呼んでくる」
テオドールがウィリアムを残してルーカスを呼びに行くと、サミュエルはゆっくりと身体を起こした。いつも見慣れている真っ白な天蓋。自分の寝台の上で身体をゆっくりと動かしてみる。
指一本一本、手首、肘、首、足首、腰、特に問題なく動く。痛みもない。感覚も問題ない。ただ全身隈なく湿布のような物がぴっちりと貼り付けてあり、突っ張ってやや動かしにくい位だ。
だけど、抱擁してくれたウィロウの温もりが身体に残っている。あれは本当に夢だったのか?
「やっと目覚めたな。遅いぞ! どれだけ心配したか分かっているのか!?」
ウィリアムはほっとした顔をしている。
「ああ、すまない。心配かけたな」
「坊ちゃま〜!!!! 」
甲高い声が聞こえたかと思った途端、物凄いスピードでハンナがサミュエルの部屋に駆け込んできた。
「良かった! 本当に良かった!! 」
ハンナがサミュエルを強く抱き締める。サミュエルはやや咳き込みながらハンナに応える。
「ハ……ンナ……心配かけて済まなかった。ケホケホ、私はもう大丈夫だ」
ウィリアムはすかさず助け舟を出す。
「ハンナさん、お前が目覚めた時にって、例のスープ作ってくれているぞ」
ハンナはハッと我に返る。
「あ! そうでした! 坊ちゃまの顔を見たくてつい忘れておりました。急いで厨房からお持ちしますわ! 温めますので少しお待ちくださいまし! 」
ハンナは脱兎の如く大急ぎで厨房に戻っていった。
そこへルーカスがテオドールと共に入って来る。
「サミュエル。目覚めたか。お前が倒れて今日で三日目だが、気分はどうだ?」
「随分良くなりました。ご心配お掛けしました。随分長く夢を見ていたようです」
「そうか。どんな夢を見ていたのだね」
「母上にお会いしてきました」
ルーカスの瞳に驚きの光が指した。
「ウィロウか。あれから十四年経つからな。大きくなったお前を見て驚いていただろう」
「ええ。『空からずっと見守っています。みんなに宜しく』とのことでした」
「他には?」
「……アシュリンを早く迎えに行くようにと言われました。母上にまで心配をお掛けしてしまって、私はまだまだ精進しないといけません」
「そうか。ウィロウにも背中を押してもらったわけか。久し振りに会えて良かったな。お前の気持ちと身体の具合でいつでも決行可能だ。どうする? 」
「医師は何と? 」
テオドールが答えた。
「お前の回復力を促進させる薬の効果で特に問題が無いようであれば、通常生活に戻っても大丈夫だそうだ。医師からは目覚めたら膏薬を剥がして良いと指示が出ている。早速剥がそうか。手伝おう」
テオドールに手伝って貰いながら、サミュエルは全身に貼ってある膏薬を剥がし始めた。肩に受けた傷は縫合していないが、跡形なく綺麗に治癒していた。これにはサミュエルも驚いた。膏薬を全て剥がし終え、清拭し、衣服と髪を整えると、まるで何事もなかったかのような塩梅である。
「どうだ? 」
「不思議なくらいです。本当に三日も寝込んでいた気がしません。力が漲るような……そんな気がします。この膏薬の効力は……凄い」
その時ハンナが声を掛けた。机に食事の準備をしてくれていたらしい。良い香りが漂って来ている。
「さあさあ、お待たせ致しました。あちらの机に準備しております。坊ちゃま、どうぞ召しあがって下さいませ」
「サム、三日間何も口にしてない状態では本当の力は出まい。食事をとってから先の話しをしようか」
「ええ。そうします。折角の心尽くしのスープですから、先に頂きます」
「ルーカス様、テオドール様、ウィリアム様、皆様もどうぞご一緒に。沢山拵えましたから」
机には四人分の食事の準備がしてあった。今日のスープはギンカ豚が多目に入っている。
「食事が済んでから、医師の診察を受けたほうが良い。お前に施した膏薬の効果を気にしているから、医務室に行こうか。勿論ウィリアム殿も一緒だ」
「分かりました。それ次第で決行日を決めます」
「向かう場所はエリウ内にある傍系ラスマン家の居城だ。主家の屋敷かと思ったが、何か考えがあるのだろう。みんなの力があれば千人力だ。案ずることはないが、油断は禁物だ。良いな」
「はい」
――アーリー。すっかり待たせてしまってすまない。もう時期迎えにゆく。待っていて欲しい。
サミュエルはエリウの方向の空に向って思いを馳せた。
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