エピローグ④その血に憑くもの(後)

 甘く粘ついた囁きが身体を這い回る。ずるずると蠢く闇が包囲を狭めて、ヒースの背中から首に蒼白い女の腕が掛かる。腥い臭いが強くなって、裂けた蛇の舌がずるりと頬を舐めた時、獣頭の神の声が脳裏を過ぎった。


『へびのかんげんに、そそのかされおちた、おまえのしゅくふくなど、いらぬ。このもりに、さいやくをもちこんだ、おろかものめ!』


 ヒースは全身に稲妻が落ちたような衝撃を受けた。そして、悟った。

 ――たとえ御印みしるしが完全復活したとして、勝てる相手じゃない。クリアネルに甘言を吹き込み、その魂を穢そうとする者、この想像が正しければその名は……――。

 思い至ったその名を口にしなかったことは暁光と言えよう。


 突如、蛇女は金切り声を上げて悶絶して、ヒースの身体から手を離した。周囲に迫る闇が薄れたその時、暗い水の中に一条の緑の光が差し込む。

 それは、クリアネルが齎す一片の穢れなき白とは違う優しい光だった。春の木漏れ日のように柔らかなのに、清濁を併せ呑む深さと強さで包む光。運命の重さに挫けそうになるヒースを何度も引き上げた温かい光。


 ――アルが呼んでいる。


 ままならない呼吸に意識を手放しそうになりながら、ヒースは必死に闇を蹴り水面に出ようと試みる。追い縋る蛇女を振り切り、光を掴んだその瞬間、襟元を掴まれて一気に水面に引き上げられた。

 目の前には蒼白な顔で、ヒースの胸ぐらを掴んだアルファルドが居る。冷たい風に体温を奪われて、ヒースはガタガタと震えながらもアルファルドの左腕を叩いた。青い唇がはくはくと声にならない警告を溢すと、アルファルドは唇を引き結んで頷いた。


「ヒース!!」


 岸辺に乱暴に投げ捨てられたヒースに、セリアルカが駆け寄って水を吐かせる。ヒースはようやく自由になった鼻腔に、飲むように息を吸って、咽せるように吐いた。身体中に濃い酸素が行き届いて頭が働き始めると、胸の奥深くにじわじわと恐怖が染み込んでくる。

 セリアルカは震えるヒースに自分のコートを掛けて、使い魔のハティを呼んだ。何故呼ばれたか不思議そうなハティだったが、ずぶ濡れのヒースにぴたりと寄り添って温めてくれる。


「セラ! アル、を、止めて! にげ、ないと! アルがッ……危な、い!」


 ガチガチと歯を鳴らしながら、息も絶え絶えにヒースは訴えたが、セリアルカは落ち着いた様子でヒースの背中を摩る。


「大丈夫。月神アルに任せて」


 セリアルカの確信を持った強い言葉に打たれ、ヒースは息を呑んだ。あれが何なのか、何が起こっているのかを理解しているような口ぶりに、ヒースの胸に小さな疑念が湧く。


『あああぁ美しいクリアネル! 冷酷な太陽よ!』


 大地が揺れて川が渦を巻く。にわかに空が暗くなって、腐った魚の腑を濃縮したような悪臭が漂った。空を引き裂く破裂音と共に川から大きな水柱が上がって、黒蛇がその全貌を現す。

 全長は五階建の塔か、大型の竜の頭から尾の先ぐらいあるだろうか。柳の枝葉のようにだらりと垂れた蒼白い女の上半身の下には黒蛇の胴体が連なる。最も太い箇所は牛一頭丸呑みできそうな太さだった。


 黒蛇は蛇竜のごとき身体を空中でくねらせると、川辺に居たアルファルドに狙い澄まして急襲する。腐った水草のような長い髪から爬虫類の顔が覗いてニヤリと笑う。魔物や魔族を見たことが無い者なら、それだけで震え上がっただろう。

 しかし、アルファルドは冷静に半歩で躱し、瞬時に抜き打つ刀で女の上半身に一太刀を浴びせる。緑の魔力光を纏った黒刀は女の蒼白い胸を裂き黒い血が噴き出した。


『おのれ、忌々しい獣どもめ! たかが器の分際で妾の邪魔を……!!』


 黒蛇は痛みにもんどり打って怒りの咆哮を上げるが、アルファルドは歯牙にも掛けない。刀身にべったりと付着した黒い血を振り払って、ベルトに差した鞘に納める。香木の香りが立ち、鞘を握るアルファルドの左腕に月光花の紋様が浮かぶ。低く腰を落として抜刀の機を狙いながら酷薄な笑みを浮かべた。


「……偉そうなババアだな」


 アルファルドがボソリと溢した瞬間、死角から蛇の胴が大地を巻き上げて薙いだが、吹き飛んだのは蛇の胴体の方だった。図体の通りの大雑把な攻撃を見切って、翠風を纏う抜刀術が蛇の胴を両断したのだった。


 ヒースとセリアルカは、月光花の蔓の結界の中で戦いの行く末を見守っていた。寒さか、恐怖か、眼を見開いたまま震えるヒースを抱き締めて、セリアルカは必死に考えを巡らせていた。


 真夏なら風の魔法で一気に水を飛ばすところだが、冬の雪解け水ではそうもいかない。低体温症の場合、一刻も早く濡れた服を脱がせて身体を温めなくてはならないが、いつ襲われるともわからないこの状況では不可能だった。


 セリアルカは毒を吸い出す要領で、服に大量の月光花を咲かせて水を吸わせてみたが、これが功を奏したようで服はあっという間に乾いた。しかし、体温が戻らない。


「ヒース! もう少しだから頑張って! すぐにデニス兄さんが来てくれるから!」


「……りが……る」


「え?」


 うわごとのように呟くヒースの声は、耳をつんざく悲鳴に掻き消された。地鳴りが止まり、降り注ぐ土砂が収まると、そこには斬り刻まれて短くなった黒蛇が、呪詛を吐きながらアルファルドの足元でもがいていた。

 アルファルドは鬱陶しそうに足蹴にして刀を頭上に振りかぶる。黒い刀身に鮮やかな緑の光が疾った。


「器がどうとか言ってたが、お前だって本体じゃない。使い捨ての器だろう? 神の器は神話を体現する者。月神セシェルの神話に蛇殺しがある以上、月神の間合いに入った蛇は死ぬ」


 無慈悲に振り下ろされた刃が、女の首を斬り落とす。断末魔の悲鳴を上げて黒蛇の魔物は黒い灰になって消えた。周囲に満ちていた闇が薄れて、裂けた暗雲から陽光が戻る。魔物が消えた場所には、頭を斬られた黒い大蛇の死骸が落ちていた。


「アル! ヒースが……」


 セリアルカの呼び声に、アルファルドは刀を納めて駆け寄った。脈を測ろうとヒースの首筋に触れた瞬間、アルファルドは痛ましげに顔を顰めた。何も言わないアルファルドの手をヒースが掴む。


「いやだ……いやだよ。どうして……光が、光が消える!」


 止めるセリアルカを振り切って、ヒースはアルファルドの手に縋り訴える。灰色に変色した御印みしるしから血を流して。


「やっと、掴んだのに!! どうして!? ……まだ頑張りが足りないの?」


 訴えたところで、アルファルドにはどうにもできないことはヒースも分かっていた。それでも訴えずにはいられなかった。


「君は見ただろう? この御印は本物だっただろう!? なのにどうして血が流れるんだ!?」


 御印は上位の神にしか傷つけられない筈なのに。クリアネルは闇の女神と同等位の存在なのに。

 冷たい風がびゅうと鳴いてぬるい涙を攫う。ひひひひと穢らわしい嗤い声がいつまでも耳について離れなかった。


「――僕は、偽者なの?」


 疲れきったため息を溢して、ヒースは意識を手放した。




 ***




 ぼんやりとした薄暗い視界に、僅かな光を反射してキラキラと光るシャンデリアが揺れている。ロイヤルスイートの天井だと気付くまで、少し時間がかかった。


 喉奥と肺が圧迫されて、息苦しさに喘ぎながらヒースは気を失う前のことを思い出す。起き上がろうと身動ぎすれば、殴られたような鈍痛が走り身体に力が入らなかった。

 仕方なく、寝たまま重い頭を動かして周囲を見回せば、ベッドの脇に大きな毛玉が寝そべっている。


「ハティ……?」


 まるで別人のようなガラガラ声だった。風邪をひいたみたいだと、ヒースは憂鬱なため息をつく。

 辛うじて動く手を伸ばすと、毛玉の耳がピクリと立った。動けないヒースの手にふわふわした何かが触れる。向こうから近寄って来てくれたようだ。


「ごめんね。もう、魔力をあげられなくなっちゃった」


 白薔薇は完全に沈黙してしまった。やるせなさに唇を噛む。眼の奥がガンガンと痛んで、ヒースは眼を覆った。震える唇から微かな嗚咽が漏れる。


「ごめん……ごめんね……」


 それまでじっと静かに見守っていた狼は、ヒースの胸にのすっと大きな前足を乗せた。ひんやりとした粘土の塊のような、もったりした肉球がのすっ、のすっと優しく胸を叩く。どうやら寝かしつけようとしてくれているらしい。


 驚いたヒースが暗闇で眼を凝らすと、狼の光る眼は赤ではなく、金色が混じる緑色。ハティじゃない。


「ふふっ……ありがとう。…………アル」


 ふにっとした肉球の感触と適度な重みが心地よくて、ヒースは眼を瞑る。

 月神が見守ってくれているから、蛇に襲われる心配は無い。苦痛と緊張に凝り固まっていた精神が解れると、ヒースは深い眠りに落ちていった。


 狼はヒースが眼を覚ますまで、片時も離れず側で守り続けたが、ヒースは当時のことは朦朧としていてあまり覚えていないと語ったという。

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