黄昏色の薔薇(ヒース編:ビターエンド)

エピローグ③その血に憑くもの(前)

 長いようで短かった冬休みも、あと五日で終わり。神話が息づくオクシタニアの森を出て、日常の象徴である学院に戻る時が来た。

 昼過ぎに街に着いた一行は、モルヴァナ駅で荷物を預けた後、一旦解散して、集合時刻までしばしの自由行動となった。


 アルファルドとセリアルカは墓参りに行くと言って二人で出掛けてしまい、セシル家の三人の兄達はエリオット・リーネ教授と駅近くの喫茶店で時間を潰している。


 誰の墓参りなのか聞きづらい雰囲気だったので、二人について行く気にはなれず、かと言って教授の方に合流しても、意地の悪いアーサーあたりにイジられてイライラするだけに違いない。これから二泊三日の列車の旅で嫌でも顔を合わせるのだから、今ぐらいは心安らかに居たい。

 せめてアンジェリカが居てくれれば、外面の良いセシル兄弟は善良な羊のフリをしてくれるのだが、彼女は一足先に昨日の便で出発しているそうだ。


 そんなわけで、ヒースはお土産を買うという口実の元に、ひとりでのんびりと買い物をする羽目になった。

 ちなみにフィリアスには柄に美しい透かし彫りの入った木製のペーパーナイフを。エルミーナには降月祭のセリアルカの写真をポストカードにしたものと、オクシタニア産のハチミツ入りのお菓子を購入済みである。


 何を贈っても喜んでくれる家族はともかく、問題はディーンへのお土産だ。ディーンに貰った魔石の腕輪に命を救われた身として、土産物無しという選択肢は無い。

 オクシタニアといえば、ワインと木工芸品と高級家具が有名で、土産物屋で売っている物もそういった物が多い。だが、肉以外にディーンが喜びそうなものが思い付かない。


「木彫りの置物でも買って行こうかな……食いもんじゃねーのかって文句を言われそうだなぁ」


 ショウウィンドウの中でつぶらな瞳をこちらに向ける木彫りの狼を眺めながら、ヒースは独りごちる。

 散々悩んだ末、母には幸運を呼ぶというつがいの狼の置物。兄には安物だが店員さんイチオシのワインを。ディーンにはワインに良く合うというハムとベーコンのセットを購入して店を出た。

 シュセイルでは十八歳から酒が飲めるが、ディーンは先月誕生日を迎えて十七歳になったばかりだ。今渡してもワインと一緒に楽しむことはできないだろうが、肉なんだから文句は無いだろう。


 ふと気付けば日は傾き始めて、春まだ遠い冷たい風に身を震わせる。何か温かい飲み物でも買って行こうか、集合までまだ時間はあるだろうかと、ヒースはいつもの癖で上着の胸元を探って、「ああ、そうか」呟く。懐中時計は森の神域で失くしてしまったのだ、とため息をついた。


 懐中時計は、金の蓋にクレンネル大公家の白薔薇と一角獣の紋章が刻まれ、文字盤には宝石が埋め込まれた高級品である。失くしたことが兄にバレたら相当怒られるだろう。

 修理すればまだまだ使えた筈だが、あの状況で探して持ち帰ることは不可能だった。懐中時計のためだけにアルファルドに神域の扉を開いてもらうわけにもいかない。


 今回の旅では、懐中時計を失くし、全治二週間の大怪我をして、使い慣れた剣も折れてしまい、散々な目に遭ったが失ったものばかりではない。

 緩く握った左手がほのかに温かくて、ヒースは口角が上がるのを禁じ得なかった。


 ――左手の甲に輝く白薔薇を見たら、兄さんは何と言うだろう?


 リーネ教授曰く、まだ完全に復活したわけではないとのことだが、力を失ったと思っていた白薔薇の御印みしるしが、息を吹き返したのだ。クレンネル大公家千年の悲願達成に一歩近付いたのは間違いない。

 ヒースは土産話と共に輝く御印を、自分のための土産として持ち帰れることが誇らしかった。暇さえあれば眺めてニヤついてしまう程に。――そう、とても浮かれていたのだ。


 土産物屋のある市場から川沿いの道を歩き、街の北にある駅に向かう途中、川縁に長い黒髪の女性が立っているのが見えた。黒髪は、このシュセイルではとても珍しい。ヒースが知る中で、長い黒髪の女性はひとりしか思い当たらない。


「セラ? ひとり? アルはどうしたの?」


 ヒースが声をかけても彼女は黙って振り向かず、じっと川の中を見詰めていた。近寄ってその視線を追って、ヒースは我が目を疑う。その場に荷物を置いて、ブーツが濡れるのも厭わずに川に突っ込み、膝下ぐらいの深さに沈んでいたそれを拾い上げた。


「なんで、こんな所に?」


 掌の上でキラキラと光を弾くのは、失くした筈の懐中時計だった。蓋を開けば、壊れた上に水が入ったオルゴールがくぐもった音を二、三音鳴らして止まる。

 一体何処から流れて来たのか。川の上流を見やれば、灰色の雲に埋もれたヴィスナーの山々が在る。あの山の向こうの森から流れて来たのだろうか? 常識では考えられないことだが、あの森で起きた様々な事件を思えば、そういうこともあるかと妙に納得してしまう。


 ともあれ、ご丁寧にも洗って返してくれたのだから、今度は失くさないように大事にしよう。とヒースはハンカチに包んで上着のポケットにしまった。


「見つけてくれてありがとう! …………セラ?」


 振り返ると、川を見詰めていた黒髪の女性は居なくなっていた。セリアルカが何も言わずに立ち去るとは思えず、ヒースは首を傾げる。たった今、彼女の横顔を見た筈なのに、表情も服装も思い出せない。そもそも、本当にセリアルカだったのか、女性だったかすら定かではない。

 膝下まで浸かった水の冷たさも相まって、ゾクリと悪寒が通り抜けた。


「ヒース!」


 ヒースが川から上がって、声のする方を見れば、川縁の道をセリアルカとアルファルドが駆けて来る。


「ヒース!! ……ぐ……から……ろ!」


 強い向かい風が声を掻き消して、彼女の帽子を吹き飛ばした。露わになった髪は、風に煽られて毛先が乱れる。『普通は二ヶ月でこんなに伸びないし、このまま学院に帰ったら皆びっくりするもんね』と、が……。


「逃げろ!!」


 セリアルカの声がヒースの耳に届いた瞬間、ヒースは足を掴まれて川の中に引き摺り込まれた。

 凍る寸前の水の冷たさに身体が縮こまり、貼り付いた服が重みを増して川底へと誘う。ヒースはセリアルカの呼ぶ声のする方に水を蹴って、息継ぎに顔を出したが、何かが首に巻き付いて再度水の中に引き込まれた。


 必死にもがきながら首に巻き付いた何かを掴むと、掌に鱗のような細かい凹凸を感じる。

 ――水蛇か? こんな冷たい水の中に?


 澄んだ雪解け水が流れる川だったが、辺りは真っ暗で卵が腐ったような悪臭が漂っていた。鱗の正体を突き止めようと眼を凝らせば、暗い水の中をゆらゆらと白い何かが近付いて来る。ヒースの瞳がそれを視認して理解する前に、御印が警告を発するように熱くなった。


 最初に見えたのは流れに身を任せる水草のような長い黒髪だった。その下のつるりと鼻が削げ落ちた爬虫類のような蒼白い顔には真紅の双眸が爛々と光り、もがくヒースを愉しげに見詰めている。上半身は裸で、痩せて肋骨の浮いた女の姿だが、臍から下は黒い蛇の魔物だった。


 周囲で蠢く闇は、この女の胴体ではないか? 鋭い感性が災いして、知らなくて良いことまで実感させる。悲鳴を飲み込んで恐怖に歪むヒースの頬を撫でて異形の女はニタニタと笑う。髪が、蛇の尾が、媚びるように身体に巻き付いて、ヒースは嫌悪感に恐慌をきたした。


『美しいクリスティアル』


 名を呼ばれた途端、さぁっと血の気が引いて、弛んだ肺が大きな気泡を吐いた。晩冬の川の水よりも冷たい女の指が、ヒースの頬から胸へ腰へと艶かしく這う。何故名前を知っているのか、どうやって知ったのかなんて考える余裕は無かった。


 息が詰まって大量の水を飲みながら、ヒースは左手を顔の前に突き出し、御印に魔力を繋ぐ。魔法を使うのは止められているが、今は武器になるものは何も持っていない。背に腹はかえられない。

 しかし、蛇女はそんなヒースの足掻きを嘲笑い、見せつけるようにヒースの左手に頬擦りする。ひしゃげた黒い爪が白薔薇の花弁を毟ろうと食い込んで、赤い糸がほつれるように鮮血が滲んだ。


『光宿らぬ、まがいものの白薔薇など、恐るるに足りず』


 まがいもの。その言葉は脳に鈍く響いて、ヒースの心を掻き乱した。一瞬掌に赤い炎が灯ったが水の中では大した威力にならない。女はするりと闇に紛れ、ひひひひと不気味な嗤い声がヒースの周囲をぐるぐると泳ぎ回る。


『光に拒まれた憐れなクリスティアル……だが、闇はお前を見捨てたりはしない』


 白薔薇が完全に復活したわけではないことは、ヒースが自身が一番よく分かっていた。何故なら、神域で発揮できたのは火の魔法のみだったから。光の魔法が使えなければ、太陽と光の神を名乗る資格は無い。


『欲しいと言え。手を伸ばせ。お前の望むものは何でも与えよう。――お前が縋るべきは妾の手だ』

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