エピローグ①『最後の旅』

 いつかこんな日が来るんじゃないかと恐れていた。極力外の情報を入れないようにして、彼女が世界情勢に興味や不安を覚えないよう囲っていたのに。

 アスタヘルと一緒に暮らし始めて七年が経った頃、オクシタニアの外の世界は滅びの危機に直面していた。


 情勢が悪化した理由は単純なものだ。王位継承戦争が終結して、魔王の座が埋まったのだ。それまで一枚岩ではなかった魔族勢力がひとりの王の元に集い、クレアノール王国に攻め入った。


 ――思い出すのは、月明かりの下で揺れる白薔薇。歌うように吐かれた呪いの言葉だ。


『君の隣に居たら十年以内にアスタヘルは死ぬよ』


 俺が、アスタヘルの隣に居なければ。

 俺が双子に読み書きを教えるついでにアスタヘルにも教えなかったら、彼女は何も知らずに今も笑って生きられたのだろうか?


 クレアノールが何度目かの戦渦に包まれたことを報せる新聞を握りしめて、アスタヘルがこの胸に飛び込んできた時、俺はこの幸せが終わるのだと覚ったのだった。




 薄くたなびく雲が、ヴェールのようにヴィスナーの山々の頂を覆い隠している。その喪服の貴婦人のような佇まいを見上げながら、俺は服に噛み付いて離れないシリウスの頭を撫でていた。


『おれを、つれていけ』


 許すと言うまで離さないと、シリウスは俺の膝の上を占領して唸る。少し離れた所では俺と同様に双子にしがみつかれたアスタヘルが、二人を宥めていた。


「できない」


『おれを、すてるのか?』


「違うよ。俺はお前を信じているから。お前にしか頼めないからだ」


 潤んだ赤い瞳から、瞬きに押し出された涙がぽたぽたと俺の膝を濡らす。甘えた鳴き声など出したことのないシリウスが、きゅうきゅうと哀しげに喉を鳴らしている。


『きょうだい……』


「ああ、そうだ。俺たちは兄弟だ。……だから、お前の甥っ子たちを守ってくれ」


 祖父から受け継いだ黒刀を差し出すと、シリウスは少し迷った後、鞘を咥えてアスタヘルの側に居たポルックスの足元に擦り寄る。

 シリウスは一度だけこちらを振り向いて小さく頷くと、ポルックスの影にするんと入った。驚いたポルックスが声を上げる。


「ルシオン! シリウスが!」


「お前を新たな主人に選んだようだ」


 ポルックスは泣き腫らした顔で、傷付いたように顔を顰めた。俺の方には来ないだろうと思っていたのに、体当たりの勢いで鳩尾目掛けて抱きついて来る。予想よりも重い一撃に、あの赤ん坊がこんなにも大きくなったんだなぁなんてしみじみ思う。


「おいおい、どうした?」


「……母さんと一緒に帰って来いよ。一緒じゃなきゃ、二人とも家に入れてやんねーから!」


「あはは」


「本気だぞ!」


「ああ……」


 当たり前だ! と言って安心させてやるべきだった。だが、俺にはその一言がどうしても言えなかった。


『――ルシオン。君はその手で愛しい人を殺すだろう』


 今も耳に残るその予言は、俺の心の奥底から毒を滲ませる。

 予言者は嘘を吐かないと奴は言った。だが予言された未来を変えられないとは言わなかった。これから起こることが分かっているのなら、アスタヘルを危険に近付かせなければいい。たとえこの身が砕けても、俺はアスタヘルを守ろう。


「分かったよ」


 しがみ付く白金の髪を撫でて、俺は密かに誓った。




 ***




 大災厄の夜、クレアノールから遠く離れたオクシタニアにも灰色の塩が降ったという記録が残っている。

 塩気にベタつく灰色の雨の中、セシル家の双子がオルハの家を訪ねたのは、まだ暗い早朝の出来事だった。寝ぼけ眼のオルハが玄関口に出ると、双子は「今までお世話になりました」と二人揃って頭を下げた。


「こんな朝早くにどうしたの? 何処かに行くの?」


 双子はフード付きのマントを羽織り、大きな荷物を背負っている。側に控える魔狼シリウスも背中に荷物を括り付けていて、これから行商にでも行こうかという格好であった。


「峠を越えて、森に入ります」


「僕らに御印みしるしが宿ったことを報告しに行くのです」


 それは、両親――ルシオンとアスタヘル――が死んだという報告にほかならず。


「そんな……」


 言葉を失い立ち尽くすオルハに再度深々と礼をして、二人と一匹は夜明け前にモルヴァナの街を出た。

 その後、カストルとポルックスの双子の兄弟は、オクシタニアの森の復活に尽力し、シュセイル王となったエリオスと交渉して、獣人として初めて爵位を授けられた。これがオクシタニアの領主セシル伯爵家の始まりである。


 大災厄の後、周辺各国では大規模な塩害が発生して、何年も世界的な不作が続いた。しかし、月神の器が戻ったオクシタニアは塩の影響を受けることなく大豊作が続き、オクシタニアの作物がシュセイルの食料危機を救ったという。


 同時期、オクシタニアからの作物と共に、ある噂がシュセイルに隠れ住む獣人の間を駆け巡った。

 曰く、『オクシタニアは獣人を保護している』『領主は神獣セシェルの末裔なので獣人を迫害しない』『オクシタニアに行けば、獣人にも住む場所と食べ物が与えられる』『月神を信仰する者は救われる』というもの。


 それは、長い戦乱と塩害による食料危機、差別や迫害により深く傷付いた獣人たちの希望となり、世界中から種々様々な獣人達が移住した。そうして、現在のオクシタニアになったと伝えられている。

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