79
「――儀式はこれで終わり。お疲れ様」
アルに声を掛けられるまで、私は空を仰いでいた。遠くに歓声が聞こえる。儀式は無事に成功したようだ。
アルは私の毛皮のケープを脱がすと、祭壇から下げたヴェールと銀花の冠を被せた。
降り止まない月光花の雨がヴェールに黄金の彩りを添える。神話に謳われる
「綺麗だよ。セリアルカ。……このまま結婚しようか?」
答えは『はい』しか無いとでも思っているのか、アルは私の答えを聞かずに唇を重ねる。
誓いの口付けを見計らっていたかのように、極光の空に花火が上がって、彼の横顔に鮮やかな光の花が咲いた。
「父さんの許可が出たらね。さっき岸辺で号泣してたから無理だと思うけど」
冗談めかして言えば、アルは苦笑して「残念」とまたひとつ口付けを落とした。
「名残惜しいけど、そろそろ帰ろうか。お祭りはもう始まっているし、お腹も空いたでしょう?」
「うん。……あ、あれ? 手鏡が無いよ?」
中央の祭壇には鏡が供えられていた筈だが、石の祭壇が鎮座しているだけで、影も形も無かった。
「月女神が気に入って、神域に持って行ったんだろうね。縁起が良いことだから心配しないでいいよ。――さぁ、帰ろう」
二つのクッションを回収して、ギターを片手にアルが手を差し伸べる。二人で小舟に乗り込むと、来た時と同様に小舟は自ずと動き始めた。
黄金の花が、星の水面にゆらゆらと揺れている。光の波を割るように小舟は静かに進んで、波に弄ばれた花がキラキラと輝きながら沈んでいく。
小舟の上から湖を覗き込めば、深く透き通った水底にも月光花が降り積もっているのが見えた。水の底にも森があるみたいだ。隣に座るアルに水の中を指差せば、彼は微笑ましげに頷いた。
「月光花は一晩で消えてしまうから、降月祭の時に小舟に乗った人しか知らない絶景だよ」
「こんなに綺麗なのに一晩だけだなんて。独り占めしちゃうのはもったいないなぁ」
「うわっ! セラがそんなこと言ったら、
月神の愛は重いんだから。
その愛の重い月神の血を色濃く引いているのに、他人事のように溢すアルが可笑しい。
「ほどほどにお願いしまーす!」
と慌ててフォローしてみたけれど、月神は聞いてくれるかなぁ? 一瞬心配が頭を擡げたけれど、花火の音に気を取られてすぐに忘れてしまった。
弾ける光が湖の水面に反射して、三日月の小舟は黄金の空と海の間を渡る。豊穣の気配を宿した温かな夜風に、甘い花と果物の香りが混じって、甘酸っぱい思いが胸に沁みていく。夜闇と光が織りなす美しい夜に、私は知らぬ間に歌を口ずさんでいた。
「……その曲。それは、なんの歌?」
アルが聞きつけて問う。遠い昔、同じやりとりをしたアスタヘルの記憶がある。その時は曲名も歌詞も分からなかったけれど。
「“月女神の子守唄”という曲だよ」
宵の空漕ぎ出づる銀の御舟
星の大海をゆらりゆらり漂う
愛し金色の獣のもとへ
星屑の波間を越え征こう
月明かりのヴェールに銀花の冠
星読みの鏡に銀の胡弓
月落ちる森に舞い降りし女神
星空を憐れみ謡うは郷愁
三日月の岸辺に寄するさざ波
二度と戻れぬ旅路なれど
巡り逢う二つの月影さやけし
今一度の逢瀬を
これは私を寝かしつける時に、お母さんがよく歌ってくれた歌だ。元曲はアルディール語なので、父さんが訳したシュセイル語の歌詞を教えると、アルは睫毛を伏せて少し淋しげに笑った。
「そうか。そういう歌詞だったんだね」
アルは徐にギターを膝の上に乗せて爪弾き始めた。一度聞いただけで覚えてしまったのか、それともルシオンが覚えていてくれたのだろうか。遠く過ぎ去った幸福な時を悼むように、憂いに満ちた音色が水面に弾ける。
「――歌って。セラ」
また大きな花火が上がって、弾けて、光の滝になって落ちて来る。梨型の楽器を奏でるアルの姿に、絵本の中の月神の姿が重なって。懐かしいような眩しいような苦しい思いに胸が震えた。
「音痴だからやだ」
「えぇー! 歌ってよー!」
「やーだ」
見惚れたなんて言えなくて、私は金色の空を見上げる。
私がこの森に還るその時には、今夜の美しい記憶を残して、この思いを持っていこう。
だから今は、独り占めしてもいいよね? いつか、私たちの記憶が物語になるその日まで。
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