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「今年も豊作になりますように。こちらはうちの畑で採れた梨でございます。どうぞお納めください」


 月神セシェルに攫われる心配はもう無くなったので、ひとりでぼうっとしたかったのだ。ハティの散歩ついでに、露店をチラッと見に行くだけのつもりだった。それがこんなことになるとは……。あっという間に人々に囲まれてこの通りである。


「ああ……ありがとうございます。お気持ちだけで充分です。それに豊作祈願だったら月女神ルーネより月神に……」


 やんわり断ろうとする私の声は、「うちの林檎です!」「葡萄です!」「こっちはキャベツです!」「燻製したばかりのベーコンです!」の声に掻き消された。

 有無を言わせず買い物籠に御供物おそなえものを詰め込まれ、ワタワタしているところに、別の方向から声が掛かる。


「月女神様! この子に祝福をくださいませ」


「うちの子にも是非!」「この子を抱っこしてください!」「頭を撫でてください」「握手してください」「魔狼に触ってもいいですか?」と今度は子供連れの母親たちに囲まれる。ひとりずつ順番に対応していたけど、参拝者待機列は減るどころか伸びていく。


 ハティが飽きて一足先に影に逃げ帰った頃、人垣を割ってレグルス卿と従者の方々が現れた。突然の領主の登場に人々が跪いて頭を下げる。人々の注意が逸れたその隙に、私は腕を引かれて建物の陰に引き込まれた。アルファルドが助けに来てくれたようだ。


「うわ、アル!?」


「今のうちに城に帰るよ。今日は長い一日になるんだから、君は夜まで休んだ方がいい」


「う、うん。でも……何も言わずに居なくなったら、皆さん困るんじゃ……」


「まったく。君は人が良過ぎる」


 私の手を引き、先を歩きながらアルは振り返らずに笑う。「まだ時間には早いんだけど。月女神がご所望なら」と呟きながら指をパチンと鳴らした。

 瞬間、大通りの方から歓声が上がった。何をしたのか聞くまでも無く、私たちが居る路地裏にも銀色の花弁がひらひらと舞い降りてくる。――月神の祝福だ。


「わぁ綺麗!」


「気に入ってもらえて良かったよ。さぁ、帰ろう!」


 歓声と幸せそうな笑い声に背中を押されて、私たちは走り出す。

 きっと良いお祭りになる。そう確信した。




 新年初めての新月の夜。オクシタニアでは月女神をお迎えするお祭りが開催される。お祭りのメインイベントでは、直近三年の間につがいになった男女の中から選ばれた一組が、月神と月女神に扮して儀式を執り行う。


 お祭りは三年に一度開催されるので、普段は首都や他領で仕事をしていて、なかなか帰って来ない人たちもお祭りに合わせて帰省する。

 特に、今回は今代の月神と月女神がそれぞれの祖神役を担うという発表があったので、駆け込みで帰省した人たちも多く、オクシタニアの森には普段の倍以上の人々が集結しているらしい。


 それもその筈、月女神の血筋に女性が生まれたのは、アスタヘル以来千年ぶりのこと。ルシオンとアスタヘルは晩年モルヴァナに住んでいたけれど、儀式に参加した記録も記憶も無いので、それらを考えると当代の月神と月女神が儀式を行ったのは、もっと前ということになる……。

 千年に一回、あるか無いかの奇蹟のイベントを見逃すまいと、関心と期待が高まっているというわけだ。


 牙が抜けたとはいえ、人の――特に狼男の――視線が気になってしまう私としては、できれば人前に立ったり、目立つようなことはしたくない。だけど、会う人すれ違う人たちに懇願と羨望の眼差しで見詰められ『月女神様』と拝まれ続けては、嫌と言える筈が無く……。

 まぁ、皆さんに喜んでもらえるなら、勇気を出して頑張ってみようかと。勢いで月女神役を引き受けてしまったのだった。


 私が月女神として出るなら、必然的に月神役はアルになるわけだけど、当のアルはといえば『せっかく番になって、堂々と独り占めできるようになったのに、なんで僕の月女神を公開してやらなきゃならないんだ』とちょっと不満そうだった。

 儀式に使う月女神の花嫁衣装を見た途端、一転、私以上にやる気を出し始めたけど。


 衣装は毎回その年の月女神のために新調されるらしい。今回は、予定外に私とアルが番になったので、衣装製作が間に合わないのではと危惧されていたが、私が高熱で寝込んでいる間にミラ様と使用人さんたちが準備してくれたそうだ。


 ……もしかして、ミラ様はこうなることをだいぶ前から予想していたのだろうか? 或いは、私の知らないところで計画されていたとか? たぶん深く考えたら寝れなくなるに違いない。やめておこう。

 湧いた不穏な疑問を胸に秘めて、私は姿見の前に立った。


 城に帰るなり、ミラ様とメイドさんたちに捕まって、頭の天辺から足のつま先までツヤツヤに磨かれてしまった。鏡の中には、衣装に着られて、ちょっぴり疲れ顔の私が所在無さげに曖昧な笑顔を返している。


 月女神の花嫁衣装は、俯いて咲く月光花のようなデザインである。光沢のある真珠色の布地は光の加減で神秘的な銀色にも見えて、一目でとんでもなく手間暇かけて作られた特別なものだと分かる。

 城から祭壇のある湖までは山車だしに乗せられて行くのだが、この衣装の上からフード付きの真っ白な毛皮のケープを羽織るらしい。フードには三角の獣耳が付いているので、遠目に見れば狼の嫁入りに見えるかもしれない。


 一度着てしまったら、気軽に飲み食いできなさそうだ。散歩の時に露店で買い食いしておいて良かった。姿見に映る自分の姿を眺めながら、私がそんなことを考えているとはつゆ知らず……。


「とっても綺麗よ。セリアルカさん」


 私の肩に手を置くミラ様は青い瞳を潤ませている。

 実の娘のように親切に接してくれて、家族に迎え入れてくれた優しい御方だ。私が今回の月女神役を引き受けた時も、誰よりも喜んでくれた。私の母さんが生きていたら、こんな風に喜んでくれただろうか。そう思うと、鼻の奥がツンと痛くなって視界が滲む。


「ありがとうございます。……お義母様」


 肩に置かれた手に手を重ねて、鏡に映るミラ様にお礼を述べると、ぎゅっと抱きしめられた。


「うう……どうしましょう。アルファルドには悪いけれど、お嫁に来てほしいのに、お嫁に行かないでほしいって思ってしまうわ」


「あはは!」


 可愛い御方だなぁなんて、メイドさんたちと笑っているうちに準備が整い、レグルス卿がハティと一緒に迎えに来た。ハティは綺麗にブラッシングされて、首に青地に金の星の刺繍が散りばめられたスカーフを巻いている。


「ハティー! 君も綺麗にしてもらったの? そのスカーフ可愛いね!」


 わっふ! と元気に答えるハティは、毛皮のケープが気になるようで、熱心ににおいを嗅いでいる。その隣では儀式用の白い衣装に身を包んだレグルス卿が、こちらも感慨深げにエメラルドの瞳を潤ませていた。


「綺麗だよセラ……君を我が一族に迎えることができて誇らしいよ」


「ありがとうございます。皆さんによくしていただきました」


「今夜は今までにない盛大な祭りになるだろう。君が主役だ。大いに楽しんでくれ」


「はい! 月女神役、頑張ります!」


 差し出された手を取って衣装部屋を出ると、城の廊下には濃紺の絨毯が敷かれ、両側に等間隔に据えられた星形のランタンが行く先を示していた。

 エントランスホールには私が乗る山車が既に準備されていて、湖への道中をお供してくれる人々が大勢集まっている。狩猟の女神の使いなので皆、白い衣装に獣耳のついた白いフードを被っている。群衆の中で一際目を惹く狼耳の大男はヴェイグ兄さんだ。その隣には大きな星のランタンを持っているアーサー兄さんも居る。


 私たちが階段の踊り場に差し掛かると、人々はお喋りを止めてこちらを仰ぎ見た。しんと静まり返ったホールに私の衣擦れの音だけがサラサラと響く。和やかな雰囲気が一瞬にしてピリッと引き締まった。

 レグルス卿はエントランスホールを見渡し、準備が整っていることを確認すると満足気に頷いた。


「それではこれより降月の儀式を執り行う。我らの使命は、月女神を無事に月神の元に送り届けることだ。各々抜かりなく頼む」


 レグルス卿の宣言と共に、エントランスの扉が開いた。私が乗る山車は、ヴェイグ兄さんを始めとする屈強な獣人男性たちが引いてくれるようだ。山車から伸びる綱の先頭には、ハティに戯れつかれたヴェイグ兄さんの背中が見える。


 私はレグルス卿の手を借りながら、慎重に山車に乗り込んだ。私が所定の席に着くと、同行する楽隊が演奏を始める。銀色の花で飾られた三日月の小舟形をした山車は、音楽の波に乗ってゆっくりと動き出した。月女神の花嫁行列の始まりだ。

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