76

 視界は純黒の闇の中、光も音も届かない。まるで深海に落ちていくようだった。纏わりつく水の冷たさと重さに抗えず、意識を保ったまま、どこまでも深く深く落ちていくような絶望。

 だが、救いを求めて動かした腕に、何かモフっとしたものが触れた時、アスタヘルは恐怖心が萎んでいくのを感じた。


 ――ぬいぐるみが燃えずに、此処に有る。それはつまり私の身体もぬいぐるみも燃えていないということ。

 そう気付いた途端、身体から重さが抜けていくような感覚を覚えた。アスタヘルは胸に抱いたぬいぐるみを抱え直して、瞼を閉じた。冷たい炎を操る姫君に身を任せようと、ようやく腹を括ったのだった。


 凝り固まっていた力を抜いて、水に浮かぶ葉を心に描く。ひたひたと肌を撫でる炎は、アスタヘルの身体から穢れだけを選んで喰らっている。冷たい眠りの縁で微睡むことしばらく……。


「――終わったよアーシャ」


 セイリーズ王の声に目を開くと、よく似た兄妹がアスタヘルの顔を心配そうに覗き込んでいた。眩しさにぼうっと目を瞬くアスタヘルの額に妹姫が手を伸ばす。ひどく、冷たい手だった。


「痛いところはありませんか?」


 戦場に居る時は気を張っているので気付きにくいが、常に貧血のような眩暈や頭痛、倦怠感に悩まされていた。もはやそれが日常になっていたが、今は何も感じない。健康な身体とは、こんなにも動き易いものなのかと、アスタヘルは信じられない気持ちで身体を起こした。


「はい。ありがとうございます! 身体が軽くなった気がします」


「良かった……」


 アスタヘルの答えに、姫君はホッと胸を撫で下ろして、そのままぷつりと糸が切れたようにベッドに倒れ込んでしまった。


「姫様!」


「大丈夫。ただの魔力切れだ」


 くたりとした姫君を抱き上げて、セイリーズ王は苦笑した。アスタヘルと入れ替えに、姫君をベッドに寝かせる。きらきらと輝く青い瞳が瞼の下に隠れると、魔法が解けてただの人形に戻ってしまったかのように見えた。


「すまないが、君を送っていくことはできない。帰り方は分かるね?」


 姫君の髪を撫でるセイリーズ王の横顔は、長く仕えてきたアスタヘルでも初めて見る穏やかな顔だった。今夜は姫君の側に付き添うつもりなのだろう。


「はい。陛下……本当にありがとうございました。姫様にも何とお礼を申し上げたら良いのか……」


「何も言わなくていい。君はそれだけの働きをしてきたのだから当然の権利だよ。……それに、君は此処には来なかった。何も見なかった。――そうだろう?」


 何故、心優しき姫君が幽閉されねばならないのか。

 何故、人間の身で滅びの黒炎を操るのか。

 アスタヘルはその答えを見出していた。十二の鍵で封じられた滅びの炎。それが何を意味するのかを。


「……はい。私は、何も見ていません」


 それを、世界の守護者たるセイリーズが秘匿する罪を。


 アスタヘルは王の背中に深々と礼をして塔を出た。転移の魔法陣から白薔薇の中庭に帰還してもまだ、黒薔薇の香りが身体に纏わりついてアスタヘルの後ろ髪を引く。


 ――黒薔薇は滅びの女神ユリアネスに捧ぐ花。そして、滅びの女神の御印みしるしの紋様だ。

 夜風にすすり泣く白薔薇の庭園で、アスタヘルは立ち尽くしていた。




 ***




 扉が閉まる音を背中に受けて、アルと私は父さんの部屋を出た。滞在中に父さんが泊まる部屋は、一階の図書室の近くにある。足が悪い父さんが、なるべく階段を昇り降りしなくて済むようにという、レグルス卿の計らいである。


 何となく、まだ部屋に戻る気になれず、私たちは城の中庭に出た。土地の持つ魔力で、真冬でも暖かいオクシタニアだが、夜ともなれば流石に寒い。

 白い吐息が昇る先を目で追って、ぼんやりと空を見上げる。笹の葉の舟のような薄い月が、極光オーロラの水面に揺らめいていた。


 ――あの後、アルと二人で話し合った結果、父さんの知恵を借りることになった。月女神ルーネの御印の元保持者だった父さんは、まだ私が見ていない記憶を見ているかもしれない。それに、神話や歴史の話なら、今度こそ父さんの専門である。


 話し始めこそ、色々と突っ込んでいた父さんだったが、話が進むにつれて口数が減って、終わる頃には黙って考え込んでしまった。

 ……無理も無い。私たちだって、まだ困惑している。

 私たち御印の一族は、いつか再び目覚める滅びの女神ユリアネスを封じるために、神話の時代から命を繋いできた。これは、私たちの信条や存在意義が揺らぐ程の真実だから。


『この話は、一旦私に預けて欲しい。……ヒース君とディーン殿下には、まだ伝えない方がいいだろう。特にヒース君は、まだ白薔薇の力を取り戻したわけではないからね。不安定な御印がフラッシュバックしたら、彼の心身にどんな影響を及ぼすか分からない』


 父さんはそう答え、私たちも納得した。

 白薔薇の御印が真の力を取り戻した時、ヒースが見ることになるのは、セイリーズ王の戦いの記憶だろう。そしてそれは、光の王国クレアノールが一夜にして消滅した事件――大災厄の記憶だ。


 大災厄で何があったのか。通説では、聖王セイリーズは自らの命と引き換えに魔王を倒し、魔界の扉の向こうに封印したと云われている。その際の光と闇の魔力衝突で、クレアノールの大地は崩壊して白海に沈み、残った僅かな土地は塩の砂漠になったという。


 塩の砂漠。その言葉が想起するのは、灼いたものを灰色の塩に変える黒炎。あの美しい姫君が操る滅びの炎だ。

 あの時代に滅びの女神の器が存在したことは、大災厄と無関係だろうか? 大災厄は、本当に魔力衝突の余波によって起こったのだろうか? という疑問が頭を離れない。


 ヒースが御印の力を取り戻したら、セイリーズ王の予言や思惑、所業が明らかになるだろう。けれど、その真実がヒースにとって幸いになるかは分からない。


「私は、とんでもない闇を掘り当ててしまったのかもしれない」


 ぽつりと溢した熱が夜空に溶けていく。寒さに震える肺が上手く膨らまなくて、浅い吐息が滲む。遠い過去の黒炎は私の御印に深く絡みついて、滅びはすぐ側にあると警告を発しているのだろうか。

 震える肩にコートが掛かって、背中からすっぽりと包み込むように抱き締められた。アルの胸に寄り掛かるように顔を上げれば、髪に口付けが降ってくる。密着する体温が、凍りついた心を溶かしていく。


「ルシオンは真実が分かってホッとしてると思うけど……今頃、アーシャに謝ってるんじゃないかな」


 どうして? と、目線で問えば、アルはしゅんと眉尻を下げる。ペタンとなった狼耳が見えた気がした。


「ルシオンはアーシャが何度違うと言っても信じなかった。最後までアーシャとセイリーズの仲を疑ってたから。セイリーズにものすごく嫉妬してたし、隙あらば殺そうと思ってた」


 そういえば、ルシオンが噛んだ夜も、アスタヘルとセイリーズ王が密会してたと誤解していた。まぁ、密会といえば密会に該当するのかもしれないけど。


「私もアルに謝らないと。私は今日までずっと君の思いを誤解して、君を信じ抜くことができなかったから。それに、余計な記憶を掘り起こして共有してしまったから、知ってしまったことで君にも何か影響があるかもしれない。……ごめんね、アル」


 千年間秘密を守り抜いたアスタヘルが、私に打ち明けてくれたことには意味があると思っている。同時に、おそらくエリオスの記憶を見ているだろう歴代のシュセイル王が、大災厄や姫君の件に沈黙していることにも、何か理由があるに違いない。


 アスタヘルが私に何をさせたいのかは、まだ分からない。けれど、その時には、アルに側に居て欲しいと思ってしまったのだ。私の一存で巻き込んでしまったのだから、許してくれなくていいのに。アルは楽しそうに笑って、私を抱き締める腕に力を込める。


「僕は嬉しいよ。君と重大な秘密を共有してしまったから、これから君は、僕が秘密を漏洩しないように監視しないといけないね。僕の側で、僕だけを見ていてくれないと、淋しくて何処で何を話すか分からないよ?」


「……知ってるかいアルファルド君。世間ではそれを脅迫というんだ」


「先生みたいなこと言わないでよ」


 頬を寄せて笑い合ったら暖かくて、なんだか少し泣きそうになった。この旅が始まってから、私は泣いてばかりな気がする。こんな顔を見られたくなくて、彼の腕の中でくるりと反転する。彼の首の後ろに腕を掛けて、ヒールの踵を浮かせて。彼の首筋に顔を埋めると、春の森の香りが胸を満たした。


「側に居てくれてありがとう。私の味方でいてくれてありがとう。それから……私を選んでくれてありがとう」


「セラ……」


 夜のアルは、美味しそうな匂いがする。蕩けるほどに甘くて、一度口にしたら、病みつきになってしまうような危険な香り。私の大好きな香りだ。


「好き。…………なんだと思う。たぶん」


「そこは言い切って欲しかったなぁ」


 シャツのボタンを外しながら、彼は笑う。露わになった白い首筋を指でなぞると、くすぐったそうに肩を竦めた。


「これからも一緒に居てくれる?」


 唇を寄せて、狙いを定めて。そういえば、アルに噛まれたのも、ここだったな。なんて思い出す。


「もちろん。君が泣いて嫌がっても逃がさないって言ったでしょう?」


「……愛が重い」


「でも、そんな僕も好きでしょ?」


 好き。という言葉を噛み締めるように、彼の首筋に牙を立てた。プツリと肌を刺した瞬間、口内に広がる甘い香りに頭が惚ける。一度強く噛んでから離すと、歯茎からするっと赤い牙が抜けた。首筋に刺さった赤い牙が溶けていくのを、眺めていた……のだけど……。


「血……血が!? すごい血が!!」


「セラ。セラ、大丈夫だから落ち着いて。落ち着いて、婚姻届にサインするんだ」


「どさくさに紛れて何言ってんの!?」


 私が噛んだことは、その夜の内にオクシタニア中に知れ渡ったそうだ。翌朝、セシル家総出でお祝いされることになるとは、この時の私はまだ知らなかった。

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