75

 手を繋いで、額を合わせる。アルの温もりと共に、魔力が伝って二つの御印みしるしが共鳴を始めた。相性の良い御印は共鳴して、連鎖的に記憶を蘇らせることがあるという。私がこの森に来てからアスタヘルの記憶を見たのは、それも原因のひとつかもしれない。共鳴するアルの力を借りて、バラバラになった記憶のピースが繋がると、断片的だった記憶が瞼の裏に像を結ぶ。


 今、私たちの目の前には、かつてアスタヘルが見た古い塔が在った。




 ***




 黒い薔薇が溢れるように咲いては枯れ落ちる。その濃厚な香りに夜が揺れる。霧の中、ぽつんとひとつ夜空に伸びる塔は、濃く深い闇を纏って佇んでいた。


「この先で見たもの、聞いたもの、感じたもの。絶対に口外してはならないよ。……誰にも。ルシオンにもね」


 世界から存在を隠し、これ程厳重に封印するものとは……。

 ――十二の鍵で封印されたもの……ここに封印されているのはもしや。いや、あり得ない。それは、


 アスタヘルは浮かんだ答えを即座に否定して、疑念を胸の奥底に仕舞い込んだ。知る必要の無いことだ。訊いたところで、セイリーズ王は答えてはくれないだろう。

 ゆえに。


「承知いたしました」


 そう、答えた。たとえそれがどんな答えであろうと、自分の胸ひとつで収まることならば沈黙しようと決めたのだった。


 セイリーズ王はアスタヘルの答えに頷いて、扉の中央に触れた。扉の上を這いずる文字が動きを止めて、光の粒となって消える。やがて開いた扉の向こうは、夜よりも濃い闇が凝っていた。巨大な魔物の腹の中に入るような気分に震えながら、アスタヘルは王について塔の中に入った。


 ほんのり暖かい空気が、冷え切ったアスタヘルの身体を掠める。天井付近の細い狭間から霧に烟った星明かりが差し込んでいたが、塔の内部を照らすには光量が足りないようだ。

 明かりになるものを探して視線を巡らせると、闇の中でふわりと白い火が灯った。ゆらゆら揺れながら闇の中を移動する白い火は分裂して、壁の燭台に火を灯して回っている。白き炎は太陽神クリアネルの権能。セイリーズ王の魔力によるものだろう。


 徐々に明るさを増す室内は、白い火に照らされて灰色に見えた。壁や床、ベッドや鏡台などの家具も、ソファに座った可愛らしい人形も、闇と白い火が作り出す灰色に染められ、まるで火山灰に沈んだ街のように深閑としている。

 アスタヘルは言葉を失って、呆然と室内を見回した。一体此処は何なのか。何故、王は私を此処に連れてきたのか。王の背中に無言で問えば、王はアスタヘルには目もくれずソファに腰掛けた少女の人形の前に跪いた。


「ジュエル。私の宝石姫。遅くなってごめんよ」


 王が人形の頬を撫でると、瞼がぴくりと動いてゆっくりと開く。緩慢に瞬きを繰り返す内に状況を把握したのか、彼女は王の手に頬を擦り寄せて花が綻ぶような微笑みを見せた。

 むせ返るような濃厚な薔薇の香りは、彼女から薫るのだろうか? 少女のあまりの美しさに、アスタヘルは魅入られていた。これが本当に生きた人間だというのか、実際に動いている様を見てもまだ信じ難い。


「お待ちしておりました、お兄さま」


 震える鈴のような愛らしい声を耳にした途端、アスタヘルの灰色の世界が俄かに色付き始めた。

 陶器のような滑らかな肌に、淡く桃色に色付いた唇。艶やかな金髪は黄金の穂波を思わせる。セイリーズ王によく似た美貌に、深い青の双眸が宝石のように輝いていた。歳の頃は十歳ぐらいだろうか。フリルとレースをふんだんに使った光沢のある白のドレスは、彼女が此処で大事にされていることを物語っている。

 ――お兄さまと呼んだということは、陛下の血縁か? 陛下に妹君は居なかったと記憶しているが……。


「娘じゃないぞ」


 すっかり油断していたところに、思考の先回りをして飛んできた声が刺さる。王の声音は柔らかな笑みを含んでいたが、『絶対に間違えてくれるな』という言外の圧を感じた。アスタヘルは思わず口を抑えて、王の顔色を窺う。


「えっ!? 私、口に出してましたか?」


「出してはいなかったが、そう思っていそうな顔をしていたから」


 王は珍しく不機嫌そうに唇を曲げている。その隣では、王の娘ではないらしい少女が楽しそうに笑っていた。アスタヘルと目が合うと、彼女はソファから立ち上がり、ドレスのスカートを摘んでカーテシーの礼をする。


「わたくしは、クレアノール王セイリーズの妹。ジュエル・ティア・ローズ・クレアノールです。以後、お見知り置きを」


 世の美しいものを集めて一から作り上げた人形と言われた方が納得してしまいそうな、美しい所作にアスタヘルは心を奪われていた。セイリーズ王のわざとらしい咳払いに我に返るまでは。

 塔の入り口に立ち尽くしていたアスタヘルは、慌てて姫君の前に跪いた。


「私はクレアノールの騎士アスタヘル・リーネと申します。お目にかかれて光栄に存じます」


「アスタヘル卿……そうですか。貴女が」


 姫君は何か重要な言葉を飲み込んだように見えたが、続くセイリーズ王の言葉に、アスタヘルの疑問は吹き飛んだ。


「ジュジュ。君ならアスタヘルを救えるね?」


「はい。頑張ります」


「あの、いったい何をなさるおつもりですか?」


 よく似た兄妹の顔を見比べてアスタヘルが問うと、妹姫はバツが悪そうな兄君を見上げた。


「……お兄さま、アスタヘル卿に何もお話されなかったのですか?」


「はい。来れば分かるかなって……ごめんなさい」


 聖王と名高きセイリーズ王が、親子ほど歳の離れた妹姫に謝る様に、アスタヘルは我が目を疑った。ルシオンが見たら指差して笑いそうな光景だが、聖王も妹姫の前では人間らしく居られるのだろうかと思うと、説明不足を責める気にはなれなかった。

 姫君は跪くアスタヘルの前に自らも膝を着いて、アスタヘルの手を握る。


「アスタヘル卿。貴女の祖神、月女神ルーネは魔神の娘です。月の魔力には微量ですが闇が含まれているゆえ、お兄さまの光は貴女の身体を害してしまうのですよ。お兄さまのお力では、貴女を救えない。お兄さまは決して意地悪で貴女を助けなかったわけではないのです。どうか、ご理解くださいね」


「陛下の思し召しを疑うなど、とんでもないことでございます。……それではやはり、私の身体はもう……」


 俯いたアスタヘルの頬を両手で挟んで、姫君はにこりと微笑んだ。


「いいえ。わたくしが貴女を浄化します。そのために、貴女を此処に連れてきていただいたのですよ。さぁ、こちらへどうぞ。靴を脱いで、ベッドに横になってください」


 アスタヘルは訳も分からぬまま姫君に手を引かれて、ベッドに横になった。

 姫君は自信満々に浄化しますと言ったが、世界最高の光魔法の使い手にも浄化できないものを、このようなか弱い少女が浄化できると言うのか。信じたい反面、どうにでもなれという諦めが心を占めていた。


「痛くはない……と思うのですけど、初めて見ると怖いかもしれませんので、この子を抱っこしていてくださいね」


 手渡された黒猫のぬいぐるみを抱いて、アスタヘルは余計に増した不安を押し込めた。怖いことって何だ? と考えてみたが検討もつかない。


「私も手伝おうか? 何かできることはあるかい?」


「うーん……そうですねぇ。では、お兄さまはこの子と一緒にわたくしを応援してくださいね」


 白猫のぬいぐるみを渡されて途方に暮れる聖王の姿に、アスタヘルは今度こそふき出した。対魔族最強の剣も、無邪気な妹姫には逆らえないらしい。

 緊張と不安が和らいだところで、姫君はアスタヘルの身体の上に両手を翳した。


「それでは始めます」


 姫君の手に赤い炎が灯ったかと思えば、炎は見る間に赤から紫、そして黒へと色を変えた。黒炎の腐った卵のようなにおいが思い出させるのは、大雨の戦場に現れた名前の無い恐怖。


「何故、貴女が滅びの炎を……!」


「心配しないで。わたくしが滅ぼすのは、貴女の身に巣食う穢れだけ」


 起きあがろうとしたアスタヘルの肩に姫君が触れた瞬間、黒炎がアスタヘルの身体を悲鳴ごと呑み込んだ。




 ***




「ここまでで何か質問ある?」


 私の隣に腰掛けるアルは、休憩を挟んだ途端、頭を抱えたまま動かない。まさか寝てるのか? と顔を覗けば、渋面に迎えられた。


「あり過ぎてどこから突っ込んだらいいのか分からない……あのエリオスが親子程歳の離れた女の子に懸想してたなんて!」


「そうな……ええっ!? そっち?」


「僕はこれからどんな顔でディーンに会えば良いのか分かんないよ!」


「エリオスとディーンはよく似てるもんね……」


 いや、ほら御印の保持者は老化が遅くなるから、二十歳差ぐらいなら誤差の内なんじゃないかなって……それに、絵の中の姫君は大人の女性だし、そういう関係にあったのは大人になってからじゃないかな……うん。苦しいな。というか、なんで私が言い訳を考えてるんだ。


 ディーンがこんな話を知ったら、しばらく寝込むんじゃないかな。でも、ディーンが王太子となり翼の御印を受け継いだら、エリオスの記憶を見るかもしれない。ショックを受けないように、今のうちに伝えた方がいいのだろうか?


「……とりあえず、最後まで見せて。その後アスタヘルはどうなったの? 僕らが存在するってことは、無事に浄化できたのだろうけど」


 アルはソファに座り直して、私の手を握る。彼のシャツの下、左肩から左前腕まで緑の紋様が明滅して、仄かに香木の香りが漂った。繋いだ手から彼の温かな魔力が伝うと、私の右足の御印が共鳴を始める。

 閉じた瞼の裏に映るのは、アスタヘルが黒炎に包まれたシーンだ。


「それでは、後編をどうぞ」


 気取って呟くと、アルの憂鬱そうなため息が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る