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図書室のソファの端からはみ出た足に、私とアルは揃ってため息をついた。クッションを枕に、ハンカチを目元に乗せて、読みかけの本を抱いて眠っているのは、デニス兄さんがお探しのエリオット・リーネ教授である。
「父さん! またここで寝て! ちゃんと自分の部屋のベッドで寝なさいって言ったでしょう!?」
カーテンを開いて、貴重な冬の太陽の光を招き入れると、父さんはううんと唸って寝返りを打った。頬をつんつん突いても、唸るばかりで起きる気配は無い。今寝たら、また夜眠れなくなって、朝まで本を読むことになる。悪循環じゃないか。
「父さん〜起きろ〜。起きないとアルがお姫様抱っこで診療所に連れていくぞ〜。恥ずかしいぞ〜…………だめだ。全然起きない」
「ねぇ、セラ。今、僕が先生をお姫様抱っこすることになってなかった?」
何が悲しくて天敵のおっさんをお姫様抱っこしなくてはならないのか、とでも言いたげな視線に、『でも、頼めばやってくれるでしょう?』とにっこり微笑めば、彼もにっこりと返してくる。……嫌なら断ってくれてもいいんだけど、アルが私の頼みを断ることはない。
起こすことを諦めた私に代わって、今度はアルが父さんの肩を揺する。
「お義父様起きてください。今すぐに起きないと、ここでセラとイチャつきますよ? それはもう寝てられないぐらいに激しくイチャつきますよ。いいですね?」
私は喧嘩を売れと言ったつもりはなかったが、アルのセリフは効果抜群だった。父親として流石に聞き流せなかったのか、父さんは半眼でアルを睨みながら上体を起こす。
「……もっとマシな起こし方は無いのかね」
「おはようございますお義父様。もっとゆっくり寝てていただいても良かったのに」
憑きものが落ちたのか、
「ほほう?」と父さんは皮張りのソファの背にもたれて足を組む。冷え冷えとした空気の中で、ギシりとソファが軋んだ。
「まだ結婚もしてないのに、君にお義父様と呼ばれたくないんだけどなぁ」
「やだなぁ、お忘れですか? 僕とセラは番ですから。結婚したも同然じゃないですか」
「はぁ……なんということだ。蝶よ花よと大事に育てた愛娘が、こんな性悪男の番になるなんて……パパは悲しいよセラ」
蝶よ花よと育てられた覚えは無いが、私を大事にしてくれたのはちゃんと分かっている。ひしっと抱きつく父さんの背中をぽんぽん叩いて慰めると、私の番の性悪男は顔に貼り付けた笑みを深くした。
「ご心配には及びません。セラに対しては愛と誠意しかありませんので。それ以外は僕の邪魔さえしなければ特に何もしませんよ。ええ、はい。……邪魔さえしなければ」
「知ってるかいアルファルド君。世間ではそれを脅迫というんだ」
「そんな馬鹿な。ははは」
対話を諦めたのか、やれやれと首を振って、父さんは億劫そうに立ち上がる。
世の四十七歳獣人男性がどのくらいの体力かは、同い年のレグルス卿を参考にするしかないけれど、卿もだいぶ見た目が若いから参考にならない。急激な変化に、父さん本人が一番戸惑っていることだろう。
「父さん……私も一緒に行こうか?」
痛そうに腰を摩っている背中に、思わず声を掛ける。振り返った父さんは唇の片端を上げて、私の頭にぽんと手を置いた。
「大丈夫だよ。ありがとう。ふふ、まだ年寄り扱いには早いよ」
「そう? ならいいけど……足元に気を付けてね」
「ああ」
診察の付き添いは断られてしまったので、図書室の扉まで送る。私は父さんの背中が廊下の角を曲がったのを確認してから図書室に戻った。
ソファの前のローテーブルには、大量の本が出しっぱなしになっている。山積みになった本は読み終わったものだろうか? アルが本棚に片付けてくれている。
私も手伝おうと本の山に手を伸ばした時、ふと気になるタイトルが目に入った。手に取って青い布貼りの表紙をぺらりと捲ってみると、遊び紙を捲った最初のページはカラー写真だった。
白い薔薇の咲く庭園で、こちらを振り返り微笑む美姫の絵画『青き瞳の姫君』――その写真を見た瞬間、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
――これは、まずい。
そう思った時にはもう、どうにもならなかった。右足の
ルシオン、黒い薔薇、セイリーズ王、古塔、灰色の部屋、黒猫……目の奥に認識できない速さで大量の映像が流れ込む。私の意識は一瞬のうちに記憶の濁流に呑まれた。
世界が歪んで、ぐるぐると天と地が回る。ガツンとローテーブルに足をぶつけて、本が雪崩を起こして溢れ落ちていく。床がぐにゃぐにゃしているような不快な浮遊感に、私は堪らずソファに座り込んだ。
「セラ!? すごい音がしたけど……」
もの音を聞きつけたアルが慌てて駆け寄って来る。アルは私の前に膝を着いて心配そうに顔を見上げた。温かい彼の手が私の頬を優しく包むと、記憶の濁流は穏やかなせせらぎとなって、やがて凪の海となる。
「怪我は無い?」
痛ましげに顔を歪めてアルが問う。体温が心地よくて彼の手に頬を預けたまま、私は深呼吸を繰り返した。ぱくぱくと自分の鼓動が耳の裏で聞こえる。
御印のフラッシュバックがこんなにも強烈なものだとは知らなかった。アルはこんなことを何度も経験したのだろうか?
「うん。ありがとう……散らかしてごめんね」
「大丈夫だよ。気にしないで。君は少し休んでいて……ん、どうしたのセラ?」
私は咄嗟に、離れようとした彼の袖を掴んでいた。彼の温もりが名残り惜しかったのもあるけれど、私が見たものについて、今話さなければ二度と機会は無いだろうという予感があったから。
「千年経ったら、もう時効かな?」
アルにはそれで充分言いたいことが伝わったようだった。アルは隣に腰掛けて、私を腕の中に匿う。そこで私は初めて、自分が震えていることを知った。
冷たくなった指を擦り合わせて、彼の胸に顔を埋める。苺にオレンジに梨、薔薇とジャスミンとスミレと……彼の纏う香りをひとつずつ数えている内に、騒めいていた心は落ち着きを取り戻した。
もう大丈夫。そう呟いて顔を上げると、アルは私の記憶を啄ばむように額に口付けた。
「……千年前に関わった者たちは、魔族を除いてもう誰も生きていない。内容が分からないから僕には判断がつかないけど、今思い出すことには何か重要な意味があるんじゃないかな」
彼は私のこめかみに唇を押し当てて、『言ってしまえ』と唆かす。蛇の甘言に突き動かされるのは、いつだって月女神の方だ。だけど、私はもうひとりで落ちたりはしない。
「共犯になってくれる?」
答えはもう分かっているんだけど。
果たして、アルは予想を裏切ることなく、「君が望むなら」と嬉しそうに囁いた。やっぱり、私のお願いを断るつもりは無いらしい。私は甘え癖が付いてダメになってしまいそうで怖いのだけど、アルにとってはその方が都合が良いのかもしれない。……気を付けなきゃ。
無事に共犯者を得たところで、私は記憶の断片を順に並べて繋ぎ合わせる作業に取り掛かった。――あれは、ルシオンがアスタヘルを噛んだ夜のことだった。
私は床に落ちたままだった青い表紙の本を拾い上げて、そのページを開く。
「私は……いいえ、アスタヘルはこの人に会ったことがある」
白薔薇の庭園で微笑む美姫。通称、青き瞳の姫君。
英雄エリオスを虜にした美姫と伝えられているが、彼女の名が歴史に残されることはなかった。この絵は、理想の美女を描いたものであって、これなる姫君は存在しなかったと主張する歴史家もいる。近年ではその説が有力視されているというが……。
私たちは知っている。エリオスが何故、セイリーズ王に仕えていたのかを。
「この御方はセイリーズ王の妹君。魔物の血で穢れたアスタヘルを救ってくれた御方だよ。この御方のお陰で、今の私たちが居るんだ」
青き瞳の姫君を描いた画家カーラインは、絵が経年劣化しないように、絵の具に砕いた魔石を混ぜたものを使用していたという。彼女の瞳の青を表現するには、高価な魔石さえも惜しくはなかったのだろう。
「クレアノール王国王女ジュエル・ティア・ローズ・クレアノール……エリオスが求めていた“青い宝石”だ」
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