Ⅹ 終章 降月祭の狼

73

 昼の彼からは、果物と花の甘い香りがする。喉元から首筋に指を這わせて、顔を埋めて。香りの元を探しているうちに夜が来て。宵の月が輝く頃には、危険な色香を帯びる。

 夜の彼はこわいから。昼の間に決着をつけなくてはならない。分かってはいるけど、上手くいかない。窓の外に揺れる木漏れ日がほんの僅か翳ると、妖艶な夜の顔が覗いて惹きつけられる。


「セラ。今日はもうやめる?」


「やだ。もう少し……あと十分」


 彼の首の後ろに腕を掛けて、ぎゅっとしがみ付けば、返事の代わりに、ふふっと吐息が私の耳をくすぐる。アルは私の膝の裏に腕を差し入れて抱きかかえると、自分の膝の上に乗せた。


「重くない? あと十分耐えられる?」


「大丈夫だよ。せっかく、セラの方から抱きついてくれるんだから堪能しないと」


 アルはそう言って首筋に残る赤い牙の痕――つがいの証に口付ける。チリっと痺れるような刺激に腰が引けるが、背中に回った彼の腕はほんの僅かな隙間すら許さず、きつく抱き締める。


「焦らなくていい。噛もうと頑張ってくれるだけでも嬉しいから」


 そうやってすぐ私を甘やかそうとするから、私は自分のダメさ加減に申し訳ない気持ちになる。

 あれから何日も経っているのに、鏡を見る度に傷痕に視線は吸い寄せられて、あの夜のアルを思い出してしまう。私の望むタイミングではなかったけれど、私はアルの牙を受け入れて番になると決めたのだ。アルは一生に一度の相手に私を選んでくれた。私もそれに応えたいと思っている。


 だけど、あの夜の告白を思い出す度に、甘い感傷よりも苦い痛みが勝って、牙を立てようとする意思を邪魔する。――だって、私はアスタヘルじゃないから。アルは、私を噛んだことを後悔していないだろうか?


「……本音は?」


 声に含まれた不機嫌を察したのだろう。私の肩に顎を置いていた彼は、宥めるように私の背中を撫でる。慰めの言葉でも掛けられると思いきや。


「色んな意味で限界だから、ひと思いに噛んでくださいお願いします」


 恋愛初心者の私には正解が分からないけど、雰囲気って大事なんじゃないかな? って思うのだけど。今、“いい雰囲気”が見事に崩壊した気がする。


「『君の心の準備が整うまで待つよ』とか、かっこいいこと言ってたのにー!」


「毎日一時間、密着して首筋を撫で摩られる僕の身にもなってほしい。何もするな。やらしいことを考えるな。って拷問だと思うんですよ僕は」


「そ、それは、少しずつ慣らして苦手意識を克服しようって話だったじゃないか! そんなに嫌なら断ればいいのに」


 お望み通り、彼の膝から降りて離れようとするのに、私を捕まえる腕はびくともしない。言ってることとやってることが真逆なんだけど!?


「酷い……僕の心だけでなく、身体まで弄ぶなんて………………いや、冷静に考えたら、それはそれで興奮するな?」


「同意を求めるな! 大体、弄んでいるのは君の方だ! だって……君が好きなのは、私じゃないでしょう?」


 ついに言ってしまった。胸の内側から熱くどろりとした感情が滲み出してくる。温められたチョコレートのように、外側を残して内側から崩れていく醜い感情の塊。

 きつく抱いていた腕が緩んだ隙に身を離し、恐々彼の顔を見上げると、見開いたエメラルドの瞳の中に不安そうな私が揺れている。


「アスタヘルの記憶を受け継いで、彼女の心情を理解しても、私は私にしかなれなかった。私は、君が恋したアスタヘルにはなれない。アスタヘルを忘れてほしいとは言わないけど……私を選んだのなら、私を見てほしい」


 小さくなる語尾に、気持ちまで萎んでいく。

 たとえ傷つけ合うのだとしても、これからは言葉で伝えよう。たくさん話をしようと決めたのに。もう一度、アスタヘルを愛してるなんて言われたら私は立ち直れないかもしれない。


「ああ、そうか。ふふ……だから噛んでくれなかったんだね」


 無骨な指が俯いた私の顎を掬い上げる。重ねるだけの優しい口付けは、柔らかな笑みを含んでいた。

 自分の中の醜い部分を曝け出しているようで居た堪れない。遠い昔のご先祖様に嫉妬するなんて、自分でも馬鹿げてるって分かってる。アスタヘルが居たから、今の私たちが在るのも理解してる。

 でも、あの夜『アスタヘルを愛している』と言った彼の言葉が、今も胸の奥深くに刺さって痛むから。


「笑いたければ、笑えばいい」


 顔を背けて不快を露わにする。そんな子供じみた抗議の仕方しかできない自分に苛立ちが募る。そして、そんな私にアルはとことん甘い。アルは泣いている子供をあやすように、優しく抱き締めて頬を寄せた。


「セラは誤解しているよ。僕は生まれた時から君に会うまで、ルシオンの記憶と共に成長したんだ。六歳の時に、この森で君と出逢った頃にはまだ、夢の中のルシオンの人生にアスタヘルはいなかった。ルシオンがアスタヘルに出逢ったのは二十代半ばで、僕がその夢を見たのは十六歳の時だよ」


「えっ……ということは……」


 六歳の時から学院で再会するまでずっと手紙を送り続けてくれたのは、アルファルドの意思ということ? あれから十年以上私に執着しているのはアルの思い? つまり、アルは……。

 答えに思い至ったら、足のつま先から頭の天辺まで熱が駆け昇った。


「妬いてくれたの? そうだったら、嬉しいな」


 耳に触れた彼の唇が熱情を零す。吹き込まれた熱がそのまま顔から吹き出そうな程に熱い。いつもは温かく感じる彼の掌が、今は冷んやりと感じる。ジタバタもがく私を捕まえて、嬉しそうに笑う声が憎たらしい。


「そっ、そうだよ! 悪いか!?」


「悪くないよ。悪くないけど、僕は今まで毎日のように君に『好き。愛してる。結婚しよう』って言ってたんだけど、僕の愛は全く伝わってなかったってことがよぉ〜く分かったよ」


 低くなっていくアルの声音に、不穏を察知したが後の祭りである。至近距離で見たエメラルドの瞳には甘く妖しい蜂蜜色が混じる。肌を這う指は、髪に指にと艶かしく絡み付く。まるで、蛇が獲物を絞め殺そうとするように。


「愛してるよ、セリアルカ。何度も何度も数えきれないぐらい言ってるのに」


 優しく啄ばむような口付けは、徐々に激しさを増して。苦しさに開いた唇から、吐息さえ貪るように舌を絡める。されるがままに蹂躙され、すっかりのぼせ上がった私の頬を撫でて、アルは満足気に目を細めた。


「言葉だけじゃあ君には伝わらないみたいだから、分かってもらえるように今まで以上に言葉と態度で愛情を表現するよ。ふふふ……楽しみだね?」


 それでは早速。とばかりにソファに押し倒されたので、我に返った私は、影をバシバシと叩いて忠実な番犬を召喚した。


「ハティ〜! 助けてー!!」


「あっ! それは反則!」


 私とアルの間に真っ白なモフモフが割り込んで、肉球パンチで応戦している間に私はそろりと抜け出してアルから距離を取る。

 待ってほしい。今ちょっと混乱しているんだけど、一旦整理させてほしい。つまり……つまり……どういうこと?


 ドタバタと喧嘩中のひとりと一匹を横目に、ソファに腰掛けて頭を抱えていると、扉を叩く音が聞こえた。私が返事をする前に扉を開けた彼――ヒースは、アルに押さえつけられて暴れているハティを見て眉を顰めた。


「ハティ! やっぱりここに居たのか。急に居なくなったからビックリしたよ」


「ああ、ごめんね。私がんだの」


「なんだ、デネヴ兄さんの診察を受けるところだったから、逃げたのかと思ったよ」


 デネヴ兄さんの名前を聞いた途端、ハティは耳をペタンと下げてキュウキュウと悲しげに哭き出した。自分を抱きかかえるアルの顔を見上げて、必死に助けを求めている。


 デネヴこと、セシル家次兄のデニス兄さんが領主の城に帰ってきたのは、私たちが神域から帰ってきた翌日の昼のことだ。

 私たちがオクシタニアの森に入った直後、ヴィスナー山脈で大規模な雪崩があり、一本後の列車に乗ったデニス兄さんは雪崩が解消するまでモルヴァナに逗留していたそうだ。


 デニス兄さんは、イオス島の大学病院に勤める医師で、軍医として第五騎士団に従軍することもある獣人専門の獣人の医師。

 オクシタニアに帰ってきた時は、毎回領民の往診に出かけるのだが、今年の冬はヒースの怪我が特に重傷だったため、城の一画で診療所を開いている。


 普段から獣人を含む獣を相手にしている関係でハティも診てもらっているのだが、白衣や医療器具を見ると研究所のことを思い出すのだろう。ハティはデニス兄さんが苦手なようだ。


「用事が済んだら連れて行ってもいいかな? 怖〜い先生がお待ちだからさ」


 ちょっと前までアルと取っ組み合いの喧嘩をしていたハティだが、今はアルにしがみついて震えている。プルプルした真っ白な巨大毛玉にアルとヒースが苦笑を溢す。


「うん。いつも面倒見てくれてありがとう」


「どういたしまして。僕もハティと遊ぶのが楽しいし、好きでやってるから。――ほら、ハティ行くよ〜」


 ヒースに促されて、ハティはきゅーんと悲しげに答える。しょんぼりと耳と尻尾を垂らして、こちらをチラチラと振り返る背中には哀愁が漂っていた。


「ああ、そうだ! リーネ先生もそろそろ診察の時間だから、見かけたら声をかけておいてね」


「父さんは今の時間なら図書室じゃないかな? 私が呼んでくるよ」


「助かるよ。よろしく!」


「チッ……いいところで邪魔しやがって」


 アルの恨めしそうな呟きに、ヒースは得意気に片目を瞑ってみせた。察しの良い彼だから、気を遣ってくれたのかもしれない。

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