72 幕間の狼 Ⅴ 同じ時をあなたと

 涙を零したのはいつ以来だろうか。

 瞑った瞼が重くて熱い。頬に少し引き攣れるような感覚が残って、泣いていたのだと知る。


 応接室で目を覚ました時、レグルスの胸に込み上げたのは淋しさだった。そこにあるべきものが無いという喪失感。無いということは分かるのに、それが何だったのか思い出せないもどかしさ。


 ぽっかりと空いた虚ろに冷たい風が通り抜ける。痛いのか苦しいのか分からない。ただただ、どうしようもなく淋しい。失われた何かを悼むように、じんと痺れが全身に広がって、しばらくその場を動けなかった。


 どのくらいそうしていただろう? ふと、懐かしい花の香りが鼻先を掠めて、レグルスは瞼を押し上げる。じりっと身じろぎして、香りの在り処を探して首を巡らせれば、肩に凭れ掛かっていたミラが小さく呻いた。まだ起きる気配の無い彼女の頬にも、やはり涙の筋が残っていた。

 周囲を見渡せばそこかしこで、使用人たちが眠っている。プツリと突然糸を切られた操り人形のように、不自然な体勢で寝ている者もあった。


 ――城が眠っている。

 こんなことができる者は、レグルスの知る範囲でひとりしか居ない。エリオットの仕業に違いない。何か行動を起こしたのだとすれば、愛娘セリアルカの側に居る筈だ。

 ミラを起こさぬようソファに横たえて、レグルスはセリアルカが眠る部屋へと向かった。


 うららかな午後の陽射しが城内の静寂に不穏な影を投げ掛ける。よく見知った筈の我が家が、未知の遺跡のように思えて、自然とレグルスの足は速くなる。胸を満たす寂寞は、今や耐えられない程に痛んで、レグルスを駆り立てる。

 ようやくセリアルカの部屋の前まで来ると、レグルスはドアを蹴破る勢いで開いた。


 最初に目に入ったのは、バルコニーに続く開け放されたガラス戸だった。差し込む陽光がまるで天からの迎えのように、床に横たわるその人を照らしていた。


「エリオット!!」


 五匹の魔狼に囲まれるエリオットの姿を見た時、レグルスは膝から崩れ落ちそうになった。慌てて魔狼たちを追い払い、エリオットを助け起こすと、変わり果てたその姿に愕然とする。


「……う、んん? レグルス?」


「あ、ああ。エリオット……お前、怪我は無いか?」


 濡羽色だった髪は灰色になり、ところどころに白と黒が混じる。三十代にしか見えなかった白皙の貌には、歳月の重みが刻まれていた。それでも実年齢よりは若く見えるのだが、弱っている友の姿を目の当たりにしたレグルスの心中には、雷雨を伴う嵐が吹き荒れていた。

 十一年前の大雨の夜、意識不明の重体で運び込まれたエリオットの姿が重なって、酷い無力感に襲われる。レグルスは目の前の友の存在を確かめるように縋りついた。


「はは……ああ、怪我は無いよ。ありがとう。ただちょっと身体が重くて怠いだけさ。……すごく、疲れたよ」


「……ッ! もう休んでくれ。全て上手くいったから」


 開け放したままのガラス戸から、季節外れの花の香りが漂う。森の針葉樹の天辺は雪を纏っているのに、その足元には新緑が萌えて花が覆っていく。


「ああ。これでもう、私の仕事は終わりのようだ」


 万感を込めて、エリオットが呟く。まるで、辞世の言葉のように聞こえて、レグルスは顔を顰めた。

 オクシタニアの森を覆う極光が黄金の光を放って広がっていく。森を、城の中を、爽やかな風が通り抜けて、ずっと胸の中で凝っていた錘を溶かしていく。


「綺麗だね。この森は、こんなに綺麗な場所だったんだね」


 愛おしそうに森を見詰めるエリオットの横顔に、レグルスは目を奪われていた。

 歳をとったエリオットの姿など、一生見ることは無いのだろうと思っていたのに。黄金の極光も、四季が狂って乱れ咲く花々も、その横顔以上にレグルスの心を揺さぶるものは無かった。


「すまない……エリオット」


「うん? 何故謝るんだい?」


 ずっと、考えていたことがある。あさましい願いと知りながら、長年胸に抱き続けてきたことだ。


「俺は、嬉しいと思ってしまったから……これからは、お前と同じ時を歩めるのだと」


 若く美しいままの親友の隣で老いていくことに、レグルスは引け目を感じていた。エリオットの死を見ずに済むことはレグルスにとって幸いだったが、人並みの寿命でレグルスが去った後、エリオットが生き続ける未来を思うと、胸が焼け焦げるような痛みを覚えた。

 たった一日でいい。願わくば、親友よりも長く生きたい。多くを失い、傷ついてきたエリオットが二度と悲しまぬように。


「ふふ、あはは! ……ああ、全く! 月神の一族は本当に愛が重いなぁ!」


 ひとしきり笑った後、「俺もだ」とエリオットは呟いた。

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