71 幕間の狼 Ⅳ 記憶を眠らせて

 酷い怪我だった。生きているのが不思議なぐらいに。

 エリオットは馬車の下敷きとなって、出血多量のまま救助が来るまでの数時間を待ち続けた。森を洗うような大雨が助けを呼ぶ声を掻き消して、体力と気力を奪っていく。

 ようやく救助隊が現場に辿り着いても、泥濘みに重く沈み込んだ馬車を移動させるには、身体能力に優れた獣人といえど困難を極めた。事件発生からエリオットの救出までに、十二時間掛かったという。


 その後、領主の城に運び込まれたエリオットは、傷口から菌が入り込んだため、高熱で生死の狭間を彷徨い、目を覚ましたのは事件から十日後の朝だった。

 その間、セリアルカはエリオットの枕元から離れず、お風呂の時間以外は食事も睡眠もエリオットの側で過ごした。ミラにそう聞かされたエリオットは、心配をかけてしまった分、娘を思い切り甘やかそうと心に決めたのだった。


 救出に時間が掛かり治療魔法が効かなくなってしまったことが原因で、エリオットの左足には後遺症が残った。月神セシェルの怒りをかって生き延びたのだから、これでも幸運だったと喜ぶべきか。

 御印を持つ神の器といえど、不死身ではない。月神は必ずしもリーネ一族の味方ではないのだと、エリオットは以後セシル一族を警戒し続けることになる。


 傷が治り動けるようになると、エリオットは少しずつ運動を始めた。杖をつきながら歩けるようになると、セリアルカがカルガモの雛のように後をついて歩く姿が度々目撃されるようになる。

 側から見れば微笑ましい光景だったが、エリオットは元の生活を取り戻そうと必死だった。しかし、体力を付けたくてエリオットが『遠くまで歩こう』と言うと、セリアルカは小さな頭をぶんぶん振って拒否する。エリオットの服を引っ張って『森はこわい』と泣き出してしまう。


 瀕死の父親の隣で、助けを呼び続けたのだ。セリアルカが怯えるのも無理は無い。エリオットには、怯えて泣いているセリアルカを置いて行くことはできなかった。

 母親の死で傷付いた心が癒えればと連れて来た神の森の思い出が、更なる心の傷になってしまうとは。月神の執着を甘く見たエリオットの誤算だった。

 ――そういえば、セラに執着していたあの子はどうしたのだろう?

 エリオットの疑問はその後すぐに解けた。


 ある日、いつものように二人で庭を散歩していると、セリアルカが突然エリオットを庭木の間に押し込んだ。

 バランスを崩して尻餅を着いたエリオットに「ごめんね」と一言囁いて、セリアルカはエリオットの膝に座る。落ち着かない様子で辺りを見回し、しぃっと唇に人差し指を当てた。隠れて静かにしてろということらしい。遊びにしては表情は険しく、何かに怯えている様子だった。

 ――この森で、君を脅かすもの……?

 エリオットが答えに辿り着く前に、彼は現れた。


「セラ……セラ。ねぇ、どうして隠れるの?」


 庭木の向こうから聞こえる、甘く絡みつくような少年の声。全身を優しく愛撫して心を許した途端、縊り殺すような艶かしさに肌が粟立った。いい歳の大人が、たった六歳の少年に気圧されている。そう自覚するのは容易いが、理解が及ばなかった。


「……あっちにいって」


 セリアルカはエリオットの胸に顔を伏せたまま震えていた。枝葉の隙間から声のする方を覗けば、エリオットが隠れている庭木の向こう側に、金色の狼のぬいぐるみを抱いた少年の姿が垣間見えた。


「かくれんぼがしたいの? いいよ」


 森の王の命令により、一切の音を立てずに庭木が移動する。顔を伏せていても庭木の陰に陽が差したのが分かったのだろう、セリアルカは一層身を固くした。木で作った粗末な隠れ家を暴いて、幼い王狼は心底愉快そうに笑う。


「みつけた」


 その時、彼のエメラルドの眼に、エリオットは映っていなかった。彼にはセリアルカしか見えていなかった。彼にとって、セリアルカ以外は雑草に過ぎない。彼の森には自分とセリアルカ以外存在しないのだ。


「次は何をして遊ぶ? 何でもいいよ。セラのしたいことを教えて」


 金色が混じるエメラルドの瞳を輝かせて、色付き始めた林檎のように頬を淡く紅潮させて。彼は無邪気に笑う。

 月神の器たる彼に悪意は無い。彼は愛し子を愛でたいという純粋で盲目的な愛情しか持ち合わせていない。その結果、愛し子が壊れようとも、そのあり様すら愛するのだろう。

 ――なんと悍ましい。これが、神の愛情だというのか。


 彼の視線から僅かでも隠すように、エリオットは娘を腕の中深く抱き締めた。セリアルカに向いていた視線がエリオットを貫いた時、胸の中で心臓が不規則に跳ねた。


「セラを離してください。お義父様。それとも……僕たちと一緒に遊びますか?」


 感情の抜け落ちた零度の視線が、エリオットの心臓を鷲掴んで揺さぶっていた。狼に見つかった仔羊。蛇に睨まれた蛙。もう二度と走れなくなってしまった左足に死神が絡み付く。あの夜の泥濘に引き摺り込まれるような恐怖にエリオットは震えた。

 ――この子なら、やるだろう。月女神ルーネを手に入れるためならば、月神は手段を選ばないのだから。

 エリオットの恐怖が伝わったのだろう、セリアルカは勇敢に立ち上がって彼を正面から睨み付けた。


「ちかづかないで! もうパパをいじめないで!!」


 父親を守ろうと、震えながら全身で威嚇するセリアルカを、彼は愛おしそうに見詰めていた。


「セラ……やっとお話してくれたね。……いじめないよ。僕はセラが嫌がることはしないよ。だからもう怖がらないで。ねぇ、セラ。僕と一緒に……」


 彼の指がセリアルカの髪を掬うその寸前、セリアルカはその手を叩いて振り払った。


「ヤダ! さわらないで!!」


 追い詰められた獣の悲鳴のようだった。

 愛するセリアルカに拒絶されて逆上するのではないかと、エリオットは御印みしるしに魔力を込めたが、彼はあっさり引き下がった。


「……わかった。セラが嫌なら、触らない」


 傷付いた笑顔で彼は言う。潤んだ新緑色の瞳から雫が滴ると、彼は金色の狼のぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて顔を埋めた。エリオットとセリアルカが庭木の間から出て、城の方に歩き始めてもまだ、彼はそこに居た。

 城に入る寸前、エリオットが振り返って見れば、彼は膝とぬいぐるみを抱えて蹲って、声を上げずに堪えていた。


 ぬいぐるみのボタンの目が、セリアルカの後ろ姿をじっと見詰めている。その物言わぬ無垢な視線がまるで彼自身のものであるようで、エリオットは今すぐ彼を抱き締めたい思いに駆られた。

 だが、彼はエリオットを求めていないだろう。彼の月女神はエリオットではないのだから。




 ***




「ごめんなさい。ごめんなさい……」


 夜。セリアルカは何度も目を覚ます。


「ママも、パパも……わたしのせいで。わたしがアルとなかよくしたから……パパは……ごめんなさい」


 小さな身体を更に小さくして、世界から身を隠すように。もう二度と悪いものに見つからないように。もう誰も傷付かないように。

 エリオットはセリアルカが泣き疲れて眠るまで、背中をトントンと優しく叩きながら長い夜を過ごした。


「ねむれ、ねむれ」


 たまに自作の子守唄を歌ったり、絵本を読んだり、騎士の頃の冒険を面白おかしく脚色して語ったり。セリアルカは楽しんでいたけれど、幼子の心に深く刻まれた傷は容易に癒えるものではなかった。

 今は怪我の療養中であっても、歩けるようになったら森を出て生活を始めなくてはならない。これからは親子二人で暮らすのだ。今のようにずっと一緒には居られないだろう。


「ママも、ヒュドラも、狼男も」


 これは、逃げなのかもしれない。現実から目を逸らしても、過去は変わらない。セリアルカのためにならないのかもしれない。

 だが、せめて立ち向かう勇気を持てるまで、心健やかでいて欲しい。きっと、セリアルカの旅は長いものになるだろうから。


「つらい思いは、この森に置いていこう。……君が向き合う強さを身につけるまで」


 エリオットの三日月の御印が淡い光を発して、眠るセリアルカの身体を包み込む。瞼に口付けてベッドに寝かせると、愛娘は身体を丸めて小さな寝息を立て始めた。


「おやすみ。セリアルカ」

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