70
花は造花のように、鮮明な色を保ったまま空を見詰める。銀の森の葬列は黙して佇み、微動だにしない。あれ程耳障りだった植物の声が、今は何も聞こえなかった。私たちは全ての生き物が眠りについた静寂の森を歩いていた。
周囲を警戒しながら歩くことしばらく。前を歩く二匹の狼が突然走り出したので、私も慌てて後を追った。
金銀の狼は連携して巧みに獲物を追い込み、あっという間に捕縛。追いついた私の前に、咥えていた獲物をぺいっと放り出すと、金狼は得意気に『ほめて』と頭を押し付けてくる。
「え……それ、まさかセシェル……なの?」
よしよしと金狼を撫でながら獲物を確認すると、私の足元で、ころんと丸い金色の毛玉がプルプル震えていた。
恐る恐る顔を上げた仔狼は、潤んだ金色の眼で私を見詰める。毛玉からにゅっと飛び出た小さな耳は、怯え切ってすぐにぺたんと被毛の中に隠れてしまう。
仔狼はぽてぽてと歩み寄り、小さな前足で私の足の甲に触れると、その場に転がり降参を示してお腹を見せた。
「うっ……可愛い! 可愛いけど、なんて卑怯な!」
どうしたものか。
一言二言文句を言って、場合によってはぶん殴るつもりで来たのに……これでは怒るに怒れないじゃないか。弱いものいじめになってしまう。でも、アルとヒース、私自身も死にそうな目に遭わされたのに、そう簡単に赦すことはできない。
助言を求めて金銀の狼を見るも、
仔狼はうるうるした眼で私を見詰めて、魅惑のお腹で誘っている。撫でてもいいよ。撫でたいでしょ? 撫でたら赦してくれるでしょ? という意図が透けて見えるあざとさである。きっと歴代の
「は〜〜〜もう……分かった。望み通り撫でてあげる。だからって赦したわけじゃないからな! ……ただで済むと思うなよ?」
「……ワゥ!」
期待に満ちた仔狼の眼が恐怖に染まるまで、そう時間は掛からなかった。
***
「どーだ! これに懲りたら、二度と悪さするんじゃないぞ! 分かったか!?」
「……ゥ……キュゥゥゥ」
仔狼は疲れ果ててぐったりとしたまま小さく呻いた。ちょっとやり過ぎたかな? と金銀の狼を見やれば、惨いものを見たとばかりにぷいと視線を逸らされてしまった。
望み通りたっぷり撫で回してくすぐり倒したのだが、月神も長い時の中でくすぐりの刑に処されたのは初めての経験だろう。のびてピクピクしている。
私は花畑に座って足を伸ばすと、仔狼を膝に乗せた。仔狼はまだ何かされるのではないかと怯えていたけれど、毛並みに沿って撫でているうちに震えはおさまった。安心したのか、尻尾を振って気持ちよさそうに眼を細めている。
「反省した?」
「ゔ……グゥ」
撫でながら問うと、仔狼はちょっと不満そうに唸った。反省したかどうかは分からないが、悪いことをしたと理解はしてくれただろう。そして、悪いことをすれば月女神に鉄拳制裁されると思い知った筈だ。
「アルファルドとヒースの怪我を治してあげてね。怖い思いをさせてしまったから。この森はこんなに綺麗な場所なのに、辛い思い出だけになってしまうのは悲しいよ」
「……ウ」
ここには戦神の風は吹かない。花一本ピクリとも動かない花畑は、まるで風景写真の中に迷い込んだかのようだ。沈黙が降りると途端に空気は停滞して、濃厚な魔力がみっちり詰まった無音の世界となる。
私がここに来てからまだそんなに時間は経っていないだろう。それでも、この静けさは堪らない。私には一日だって耐えられない。
月神セシェルの双子の兄神クリアネルは、生まれてすぐに森を出て空に昇ってしまった。誰かと語らいたくても、花も樹々も月神の言葉を繰り返すだけ。この神域に月神以外に意思あるものは存在しない。美しく優しい神話の森で、彼はずっと孤独だった。
こんな淋しい場所で、彼は月女神を待ち続けたのか。遥か昔、神話の時代からこの場所で。
「ここは……淋しいところだね」
思わず口をついた呟きに、膝の上の仔狼は小さな鼻を私の掌に擦り付けて甘く哭く。胸に抱き上げて視線が合うと、私の意識は深い金色の海に引き摺り込まれた。
ぼやけた視界に映るのは空を覆う緑の極光。そして、その向こうの空を征く銀の月。――これは、月神の記憶?
神話の森に舞い降りた月女神は、月神の花嫁となった。夫婦神の間には四人の子供が生まれたが、皆男の子だった。子供たちが成人すると、月女神は末の息子に月の加護を与えて、共に森を出て行ってしまう。
月神が必死に止めても月女神の意思は揺るがなかった。
月神や森に不満が有ったわけじゃない。月女神は、獲物を追って旅をする女神。ひとつの場所に留まることはできない性質なのだ。たとえ遠く離れていても、我らが夫婦であることは変わらない。旅を終えたら、必ず森に帰る。
月女神はそう言い残したが、月神は本当の理由に気付いていた。
時は神話の終わり。戦神と魔神の戦の最中だった。魔神の侵略を警戒していた月女神は、血が濃くなり過ぎて、狼が種として弱くなることを恐れていた。一族に月女神によく似た女の子が生まれれば、月神はその子を溺愛して森から出そうとはしないだろう。
一族、子孫の未来、そして神話の森を守るために、月女神は狼族に女の子が生まれにくくなるよう呪いをかけて、新しい血を受け入れるよう仕向けたのだった。
月女神の一族が月神の元を去ってから幾星霜。幾千の星が空を駆けていった。宵から曙。白から黒。青い陽が昇り、紅い日が落ちる。
劇的に変化していく空の下で、月神は空を見上げたまま苔生す石のように動かなかった。やがてその身体は金色の樹と化して、色とりどりの花々が覆っていく。
春には雪の下から顔を出す新芽を愛でて、夏には成長する動植物たちに祝福を授け、秋には実りと収穫を祝い、そして冬には春を夢見て寄り添って眠る。
月女神と過ごした幸福な記憶を御印に刻んで、月神は眠るように森に溶けていった。
――月神は、ひとりぼっちで神としての一生を終えたのだ。
金色の波が弾けて、ゆっくりと引いていく。浮遊していた意識が身体に縫い付けられて、また窮屈な身体に押し込まれる。
夢から覚めると、金狼が心配そうに鼻先で私の頬を突ついていた。私は月神の記憶に当てられて、気を失っていたようだ。モッフリと温かい金狼の背中がクッションになって私の身体を支えてくれている。
「ありがとうルシオン。もう大丈夫だよ……」
私は貴方の心の傷を抉るようなことをしたのに。
金狼ルシオンの琥珀色の瞳には、慈しむような温かさが感じられた。アルの身体を乗っ取っていた時の歪みはもう見えない。銀狼アスタヘルとの再会が、彼の呪縛を解いたのだろう。
ホッと息をついたその時。
「キャゥ! グルル……」
甲高い啼き声に振り向けば、銀狼に咥えられた仔狼がジタバタともがいている。仔狼は私の視線に気付くとびくりと身体を揺らし、ぬいぐるみのように大人しくなった。……くすぐりの刑がトラウマになっているようだ。
「あはは。そうしてると親子みたいだね」
私の苦笑混じりの感想に、側に寄り添う金狼が鼻に皺を寄せてじっと見つめてくる。うちの子はこんなに手が掛からなかったって言いたいのかな? 確かに、カストルとポルックスは良い子たちだったね。
ルシオンは不本意だろうけど、金銀の番の狼の間にちょこんと収まる仔狼の姿は、親子にしか見えなかった。
「お父さん、お母さん。セシェルをよろしく頼むよ。……番が心配してるから、私はそろそろ帰らなきゃ」
彼らはこれから長い時を共に過ごす。逢えなかった千年の時を埋めて、思いの全てを森に還すには、話すことが多過ぎて時間が足りないに違いない。
私とアルが一生を終えてこの森に帰ってきても、まだ話が終わっていないかもしれない。
神話の森に思いが還る度、新たな物語が紡がれていく。月神に語り聞かせるお話が増えていく。眠る暇も無いくらい、たくさん話をしよう。
だからもう、貴方をひとりぼっちにはしない。
「また来てもいい? 今度はアルと一緒に遊びに来るね」
私たちを見守る花々がふわふわと揺れる。銀の森の囁きが拡がって、大きなうねりとなる。風の吹かないこの神域で、世界を動かすのは意思だけ。形を失い、個を失ってこの神域の礎となった器たちが応じてくれたのだろうか。
仔狼が吠えると、虚空に裂け目が現れた。
向こう側は暗い夜の森だ。私が思っていたよりも気を失っていた時間が長かったのかもしれない。神域の扉の前で待っていてくれたのか、空間が繋がった途端、血相を変えたアルがこちらに手を伸ばして何かを叫んでいる。
帰ろう。帰らなきゃ。私の番の元に。
そこが、私の居場所。私の家。私の故郷だから。
「それじゃあ、またね!」
三匹の狼に手を振って、私は空の裂け目に飛び込んだ。
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