69『家族』
俺が現実を理解するには、一晩では足りなかった。これがもし魔族の見せる愛欲の幻だというのなら、喜んでこの身も魂も差し出しただろう。
彼女の家に招かれて、旅装を解いて旅の汚れを落とした途端、理性の
家の中は、アーシャの甘い月光花の香りで満たされていた。暖炉に暖められて嗅覚がまともに働くようになったら、今度は感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて、震えが止まらなかった。
俺は、怖かったのだ。
目の前に居るアスタヘルは、本当に実在するのか? 触れた途端、白い薔薇の花弁になって消えてしまったら? 本当の俺はクレアノールの王宮で死んでいて、これは今際の際に見た夢なのかもしれない。
俺が立っている場所は幸福な幻で彩られた薄氷の上で、もっと欲しいと一歩踏み出した途端にヒビが入る。この幸せは、いつ割れるのだろう? そう思うと、怖くて、怖くて堪らなかった。
自分が泣いているのか笑っているのかわからない。
思いの濁流に呑まれて欲情の燃え滾るままにアーシャを抱き潰して、朝が来ても夜が来てもまだ離さなかった。
再会したばかりなのに……とても無理をさせてしまったと思う。今度こそ愛想を尽かされたかもしれない……。今更反省したところで、どうにもならないけれど。
口では『憎んでもいい。愛してくれなくてもいい』と言うくせに、『嫌わないで欲しい。側に居て欲しい』と必死に縋り付いて懇願する、重くて面倒くさくてどうしようもない獣。
そんな男に噛まれて番にされてしまったのだから、もう諦めて俺の隣で大人しくしていて欲しい。二度と俺から逃げないで欲しい。
疲れ果て、呆れかえった彼女にそう告げると、『仕方ない人ね』なんて言って笑うから。俺は怒りなのか悲しみなのかわからない痛みと共にアーシャを抱き締めて眠る。
街外れの丘の上にあるアーシャの家は、ヴィスナー山脈から吹き下ろす風の通り道に在って、時折激しく揺れる。恨めしく壁や屋根を叩く風は、山脈の向こう側、オクシタニアの森からの呼び声だろうか? 風音は布団の壁に阻まれて遠ざかり、幸福な眠りに溶けていく。
――その夜、俺は生まれて初めて幸福な夢を見た。
新緑の萌える春の森を、彼女と手を繋いで歩く夢だ。果物や菓子を詰めた籠を持って、居心地の良い場所を探して並んで歩く。繋いだ手が温かくて、存在を確かめるように何度も握り直しては不安に揺れる心を落ち着けた。
何故か今よりも若い夢の中の彼女は、俺が立ち止まる度に手を引いて導いてくれる。手を繋いで、指を絡めて、何処までも。ただただ森を歩くだけの、愛しい夢だった。
目を覚ました時もまだ、彼女が手を握っていてくれると思ったのに。現実はそう甘くはなかった。絶対に逃すまいと手足を絡み付けて眠ったのに、俺の腕の中には、何をモチーフにしたのか不明な奇怪な形のぬいぐるみが収まっていた。
所々綿が飛び出ているし大きさの違うボタンの目が不気味だったが、アーシャの香りが染み付いているところを鑑みるに、お気に入りの抱き枕なのかもしれない。
そう思うと段々と愛嬌のある顔に見えてくる。今見ているところが顔かどうか自信は無いが。
横になったまま部屋を見回すと、ベッド傍のテーブルに着替えと共に伝言が残されていた。子供が書いたような拙い字で、『出かける近くに。迅速な戻り。あなた、清掃にして待つ』と書かれている。
アーシャが書いたのだろうか? 文法はめちゃくちゃだが意味は通じる。俺は微笑ましい思いに胸がいっぱいになって、伝言通りに大人しく待つことにした。
ところで、清掃にして待つ、とは? たぶん、顔洗って着替えて待ってろってことだよな?
身支度が終わった後、なんとなく手持ち無沙汰になって、窓を開けて空気を入れ替えたり、床を掃いたりしてみる。
騎士寮住まいを経験したアーシャに散々鍛えられたお陰で、ベッドメイキングから掃除洗濯ぐらいまでは一通り習得している。皺なくピシリと新しい敷布を張ってベッドを整えると、汚れ物を洗濯籠に放り込んだ。ふと、何か見慣れない物を見た気がして、籠を床にひっくり返す。
「……なんだ? 手袋?」
発見したのは、片方の先が閉じられた筒状の布である。手袋にしては小さくて、俺の指は三本しか入らない。他にも無いだろうかと、更に洗濯籠の中身を調べると、全く同じものが三本出てきた。全部で四本だ。
俺は洗濯物を籠に戻すと、部屋の隅に置かれた箪笥の引き出しを開けた。果たして、そこには想像した通りの物が綺麗に並んで収納されていた。
「ああ……アスタヘル……どうして君は」
――分かってしまった。同時に、アーシャがあれ程固執していた騎士を辞めてクレアノールから離れた理由も。
箪笥の隣の大きな木箱を開ければ、中には色んな形の木片や謎の生き物のぬいぐるみがたくさん詰め込まれていた。……もう、疑いようが無かった。
呆然と立ち尽くした俺の耳が話し声を拾う。開け放した窓の向こうを、何かを引き摺りながらサクサクと雪を踏み締めて影が横切って行く。家には入らず、真っ直ぐ庭の方へ行ったようだ。
「ありがとう。後はもう大丈夫」
「うん。また手伝いが必要だったらいつでも言って! それから、剣の素振り千回終わったよ! 新しい技を教えて!」
「あはは! 分かった。お母さんのお許しをもらったらね」
「うん! またね!」
去って行く小さな足音に、俺は我に返った。庭に続く木戸を開ければ、切り株の椅子に腰掛けた愛しい後ろ姿が見える。太陽の光が降り積もった雪に乱反射して、痛いぐらいの光量で胸の奥底の汚い澱まで照らす。
アーシャは俺の知らない遠い国の子守唄を口ずさみ、ソリから顔を出す仔狼の頭を撫でていた。金色の被毛に金色の瞳の仔狼……先程の小さな靴下の持ち主だろう。
俺によく似た金色の瞳が、声を掛けられずに立ち尽くす不審者を映すと、仔狼は火がついたように吠え始めた。振り向いたアーシャの膝の上には、もう一匹仔狼が寝そべっていた。……双子だったのか。
「ルシオン……」
名を呼ばれて、俺はようやく息を吐き出した。神々しい母子の姿を目の当たりにして、自分のこの身体が酷く穢れているような気がしたのだ。
それは、俺が触れてもいいもの? その、光の輪に入れてくれるの? 俺にも幸せになる権利はあるの?
「……いいの?」
君たちの側に居て。
俺はその場から動けずに、眩しい笑顔で手を差し伸べる彼女に問う。
「ええ、もちろん」
この世の光源は此処にあるのかもしれない。
その答えが、どれ程俺の心を救ったのか、アーシャは知らないだろう。
***
双子はカストルとポルックスと名付けられた。たしか、冬の空の双子星の名だったと思う。
現在二歳で普通なら何でもイヤイヤと泣く時期なのだが、この二人は母から引き離される時以外は滅多に泣かなかった。
兄のカストルは、アーシャの月の魔力を受け継いだ大人しい性格の仔だ。アーシャによく似た青灰色の瞳をしていて、よく俺の膝の上によじ登って眠っている。ちょっぴり甘えん坊だ。
弟のポルックスはといえば、金色の瞳に樹の魔力を受け継いでいる。誰に似たのかは明白だ。ポルックスは警戒心が強い。会った当初は、俺がアーシャに近付く度にキャンキャン吠えて遠慮無く噛み付いてきたが、一緒に暮らして一月も経てばとりあえずは仲間だと認識してくれたようだ。相変わらず吠えられるが……。
「傷の手当てをする時に顔を見たら、双子にそっくりだったし、アーシャと同じ元騎士だって言ってたから……この人がアーシャが言ってた双子の父親なんじゃないかって。なんとかしてモルヴァナに連れて来れないかなって思ったんだ。……本当に盗賊が出たのは計算外だったけど」
双子に揉みくちゃにされているシリウスを心配そうに見詰めながらオルハが言う。頼りなさそうに見えて、なかなかの策士だったようだ。
オルハはモルヴァナの町長で、妻のマリと三人の子の五人家族である。
三年前、息子と一緒に薬草取りに出かけたマリが魔物に襲われたところを、アーシャが助けたそうだ。そこから家族ぐるみの付き合いが始まったという。
オルハの機転のお陰で俺はアーシャと再会して家族を得られたので、文句を言うつもりは毛頭無いのだが、オルハは何故だか決まり悪そうにチラチラと俺の顔色を窺っている。狼男だと分かって警戒されているのかもしれない。
「元騎士って……貴方まで辞める必要は無かったじゃない?」
三人分の薬草茶を淹れながら、アーシャが残念そうに言う。
リュミエルで俺と別れた後、双子を身籠もっていることが判明したアーシャは、セイリーズ王に暇を出されたそうだ。アーシャの性格からして、妊娠中に何か無理をしたのだろう。殺したい程憎らしい奴だが、セイリーズは正しい判断をしたと褒めてやりたい。
家を建てるなら何処がいい? と訊かれて、アーシャは親子三人で暮らすなら、嫌な思い出が残るアルディール砂漠から遠い場所がいいと答えた次の瞬間、モルヴァナ近郊の森に飛ばされていたと……。
「私は陛下がお許しくださるなら、また陛下の元で働きたいのに」
愛妻が頬を膨らましてそんな事を言うので、意地の悪い思いが頭を擡げた。不穏な芽は摘んでおかなければ。
「諦めて。俺があの野郎を殺そうとしたから、もう二度と雇って貰えないだろうな」
オルハが激しく咽せる横で、アーシャがすごい剣幕で俺の胸ぐらを掴んだ。
「な、な……なんてことを!! 陛下は無事なの!?」
「あのぐらいで死にゃしないよ。それより、腹を刺されて、真冬の凍った湖に放り込まれた俺の心配は?」
大きなため息と共に頭を抱えたアーシャの姿は、とても可愛らしかった。
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