68『故郷』

 屋根の付いた大きな箱のようなソリの旅は、思いの外、快適だった。正面に見え始めたヴィスナー山脈最高峰の頂に、あの山を背に初代シリウスと共に森を出た日を思い出す。あれから何年経ったのだろう?


「ルシオン! ヴィスナー山脈が見えてきたよ!」


 御者台から飛んできたオルハの明るい声に、俺は物思いから引き戻された。俺の膝の上に顎を乗せているシリウスが鬱陶しそうにグウと唸る。


「……見りゃわかる」


「あっ起きてた?」


「護衛が寝るわけないだろう」


 初日から二日間は森の中を通ったお陰で、傷の治癒が加速した。冬の森は力を蓄えて眠っている。金月と森の神セシェルが祝福すれば、喜んで力を貸してくれる。森を抜ける頃には、傷は完全に塞がっていた。


 傷に響くからとソリのブレードに樹の魔法で補強を加えたのも功を奏したようだ。移動中ほとんど揺れなかったので、無駄な体力を使わずに傷の治癒に専念することができた。


 ソリを牽く雪羊竜の首輪には魔物避けの鈴が付いている。竜が走る度に、シャンシャンと爽やかな音を鳴らして周囲の弱い魔物を追い払うのだが、高位魔族の血肉を喰らった歴戦の猛者たるシリウスには効果が無いようだ。

 それでもやはり、少しは気になるようで、ソリでの移動中は実体化したまま影に帰らず、俺のマントに頭を突っ込んで寝ている。


 大抵の魔物は、魔物避けの鈴と魔狼シリウスの気配で逃げていくので、俺が刀を抜いたのは人間の盗賊に襲われた時だけだった。それも大した脅威ではなかったが。


「ルシオンが居てくれて良かったよ。まさかこの時期に木の実や茸が入手できるなんて。早く嫁さんに食べさせてあげたいんだけどさ……」


 段々と小さくなるオルハの声音に、「なんだよ」と先を促した。御者台に座り雪羊竜を操るオルハの背中が、心なしか小さく見える。


「本来なら夜中にはモルヴァナに着けるけど、ここから先は山岳地帯で、山の天候次第では手前のナダロで一泊するかもしれない。……月神セシェル様のお力でなんとかなっちゃったりしない?」


「しない。月の神は山の神じゃない」


 随分と無茶を言ってくれる。ぴしゃりと突っぱねると、オルハは大きなため息をつく。また背中が小さくなった気がする。


「そっかぁ……そうだよね。仕方ない。天気が崩れないことを祈ってて!」


 俺にはそう言ったくせに、自分は早速鼻歌を歌い出す。勝手なことばかり言うので、こちらも好きにさせてもらおうか。俺はシリウスを抱えてソリの荷台に横になった。調子外れの鼻歌を子守唄に目を瞑る。

 夢の中で、愛しいあの人の歌が聞けることを祈って。




 ***




 懸念していた天候は問題無いとの予報が出ていたので、ナダロの街で簡単な補給をして先を急いだ。

 星の海と雪の大地の間を、ソリはシャンシャンと軽快な音を立てて往く。旅の終わりを竜も察しているのか、疲れを感じさせず足取りは軽やかだ。その分、向かい風がきつくて御者台のオルハは閉口していたが。

 なんとかモルヴァナの門が閉まる直前に、街壁の中へ滑り込むことができたが、そこから先が長かった。


 検問で止められ、荷物を改められ、身分証の提示を求められ、使い魔を出さないことを約束させられ、街に来た目的を何度も何度もしつこく聞かれて……温厚な俺も流石に我慢の限界だった。

 護衛が武器を所持することに何の疑問があるのか、刀に触れられそうになって軽く手を払ったつもりが、手が滑って衛兵を吹っ飛ばしてしまった。にわかに殺気立った衛兵たちに取り囲まれた。


「貴様! やはり盗賊の一味か!」


「その武器……闇の魔力が宿っているぞ! そんなものを人間が持ち歩けるわけがない!」


「こいつ、魔族だっていうのか!?」


 魔族が打った妖刀だから闇の魔力を秘めていても不思議は無いが、それを説明したところで、こいつらはハナから俺を不審者と決めつけている。聞く耳を持つとは思えなかった。

 衛兵たちは武器を構えたまま、じりじりと包囲を狭めてくる。


 面倒なことになった。俺ひとり逃げるなら問題は無いが、この街で暮らすオルハは……。そこまで考えて、会って間も無い人間に情けをかけるなんて随分と人間らしくなったものだと自嘲した。


「……これは妖刀だ。刀が認めた主人以外が抜けば手足を喰われるぞ。触れていいのはその覚悟がある奴だけだ。試してみるか?」


 その場に刀を捨てて、俺は両手を挙げた。穢らわしいものを避けるように、衛兵の包囲が一段遠ざかる。


「どうした? 俺の刀を調べたいんだろう? 腰抜けしか居ないのか?」


「そう? なら、私が試してみようか」


 背後から掛かった声の主を認識した時、全身の毛が逆立った気がした。

 その声は、もう夢の中でしか聞けなくて。目が覚めると途端に身体から抜け落ちてしまう、甘く儚い思い出。振り向いて、その姿を視界に収めてもなお信じられなかった。


「この男、隊長の知り合いですか?」


「ああ。騎士時代の同僚だ。この人の身分は私が保証する。今日はもう遅いから解散しよう」


 俺はテキパキと指示を飛ばすを呆然と見詰めていた。

 隊長ってなんだよ。なんで君がこんなところで衛兵なんてやってるんだよ。……同僚ってなんだよ!! 夫だろう!?

 彼女は俺には目もくれず、隣で震えていたオルハに目を止める。


「オルハ、大丈夫? 奥さんが貴方の帰りを待ってる。早く帰ってあげて」


「あ、う、うん! ルシオン、俺の家はあの青い屋根の家だから、街を出る前に遊びに来てくれよ! じゃあ、俺はお先に!」


 オルハのソリが去って、集まっていた衛兵たちが散って、静かな夜が戻っても俺はそこから動けないでいた。仕事を終えて戻って来た彼女の腕を掴んで、捕まえて、それから?


「本当に君、なのか?」


 寒さで鼻が馬鹿になっているようで、触れられる距離に彼女が来て、ようやく匂いが分かった。――ああ、君だ。


「アスタヘル……俺の月女神ルーネ


 聞きたいことはたくさんあった。話したいこともたくさんあった。それなのに、何も出てこない。俺は子供のように彼女の身体にしがみついて、肺が痛くなる程息を吸う。匂いを確かめなければ信じられない。月光花、あの甘く胸を焦がす銀色の花の香りを。


「おかえり。ルシオン」


「逢いたかった。君は、家に居なくて、俺は……」


「ごめんね。あの時はそれが最善だった。理由はこれからゆっくり話すよ」


 年甲斐も無く泣きながら縋り付いて、積年の恨み言をぶち撒けた。アーシャはされるがまま、俺の腕の中に居てくれる。


「アーシャ。俺は君が逃げたと、俺は愛されていなかったのだと……君は俺を憎んでいるんだと……思って」


「不安にさせてごめんね。全部話すから」


 涙が凍りついた頬を撫でて、アーシャは優しく微笑む。この笑顔を見るためだけに、俺は長く苦しい旅をしてきたのに。頬をなぞってやっと表情が分かる。今、旅の成果を受け取っている筈なのに、足りない! もっと欲しい! と心が悲鳴を上げている。


 全て、あの男の手の上なのだろうか? 挑んで負けて、飛ばされた先は生まれ故郷の近く。あの時、俺がオルハの護衛を引き受けることも、こうしてアスタヘルと再会することも、全て視えていたというのか。

 今はもう、どうだっていい。反発する気も起きやしない。


 アーシャの星芒の浮かぶ青灰色の瞳も、夜の祝福を受けたヴェールのように美しい長い黒髪も、日に焼けることの無い白い肌も、全てが愛おしい。

 薄紅を引いた唇は、齧り付いたらきっと牙が溶ける程甘いに違いない。彼女が纏う月光花の香りに溺れて、狂おしい渇望に身を捩る。

 この美しい人が、俺のつがいなのだと世界中に誇りたい。この全てが、俺のものだと。


「逢いたかった……俺を憎んでもいい。愛してくれなくてもいい。だからもう、何処へも行かないで。愛してるよ。アスタヘル」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る