67『三日月の岸辺』
アスタヘルの歌声が好きだった。
あのお堅い彼女が酒に酔っている時、月と星が綺麗で気分が良い時、俺が隣で寝ている時、彼女は蠱惑的なアルトで歌う。
俺の知らない遠い砂漠の国の言葉。祈りの詠唱のような物哀しい旋律。「それは、なんの歌?」と訊けば、「分からない」と返ってきた。
子供の頃、母がよく歌ってくれた子守唄だったが、アルディール語はもうほとんど覚えていなくて、歌詞の意味は分からないのだと言う。
俺には子守された覚えが無いので、寝る時に側で歌われたら寝れないんじゃないかと思っていたけど、彼女の子守唄は耳に心地良い。今なら少しだけ、子供心を思い出せる気がする。
アーシャが側に居る安心感。優しい歌声に包まれて、温かい海に沈んでいく感覚。ずっと聞いていたいのに、いつも最後まで聞けずに眠ってしまう。――気がついたら、もう朝だ。
アーシャはいつものように俺のこめかみにキスをして、耳元で甘く囁く。愛おしくて、むず痒くて、ずっと君の側で眠っていたい。太陽は嫌いだ。朝なんて来なくていいのに。
『起きて、ルシオン。ねぇ、もう起きないと』
「アー……シャ?」
視界にぼんやりと映る黒髪に手を伸ばす。……いつもと違うゴワゴワとした手触りだ。綺麗な黒髪なのに遠征の間に傷んでしまったのか。椿油を贈ったら喜んでくれるだろうか?
『ルシオン、もう起きないと。起きないと……貴方、死んでしまうわ』
俺が死ぬ?
予想外の言葉に意識が覚醒を始める。寝惚けた瞳が焦点を結ぶと、相棒の黒狼が気まずそうに俺の顔を覗き込んでいた。
『きょうだい! しんでしまう!』
シリウスの声は頭に直接聞こえているのに、脳が理解を拒んでいた。俺はどうして此処に居るのか。アーシャは……? さっきまで側に……いる筈が無いじゃないか。
意識の外に追い出していた痛みが、存在を主張するように身体中を駆け巡った。びょうびょうと唸りを上げて雪の飛礫が容赦なく身体を打つ。
うつ伏せから仰向けに転がると雪の白さが目に染みた。灰色の空から間断なく降る雪が俺の身体を呑み込もうとしている。
億劫に首を動かして、見える範囲の状況を確認すれば、凍りついた湖の畔に倒れているようだ。氷の上に赤い血の筋が伸びている。湖からシリウスが引っ張ってきてくれたらしい。
いいように煽られて急激に獣化したせいで、裂けた服の隙間から死が入り込んでくる。寒さと失血に震えが止まらない。身体から力が抜けていく……。
『きょうだい! ねるな! しぬな!』
シリウスは俺の襟を噛んで雪の上を引き摺るが、雪に埋もれ始めた身体は重い。このまま引き摺り続ければ凍傷で身体を失う。埒があかないと考えたのか、シリウスは俺の身体を影に引き込んで近くの森に駆け込んだ。
『しぬな! るしおん! しぬな!』
薄れていく意識の中で、シリウスの悲痛な呼び声が響いていた。
***
重い瞼の向こうで、誰かの囁きが聞こえた。別の誰かと話しているようだったが、聞こえるのはひとり分の声と火花が爆ぜる音だけ。
俺は目を瞑ったまま手足が動くことを確認する。焚き火の近くに寝かせられているようだ。特に拘束されてはいない。
「
声から察して若い男のようだ。鼻が利かないので、それ以上の情報は分からない。
気配が近付いて影が俺の身体に差し掛かった瞬間、俺は飛び起き、男の腕を捻り上げて地面に制圧した。
「うわ!? あいたったたたた! 痛いよ! 離して!」
「誰だお前……」
燻んだ金髪の若い男だった。歳の頃は二十代半ばだろうか。粗末な雪羊竜の毛織物を身に付けて、武器になりそうな物は小さな果物ナイフ以外には所持していない。
「せ、説明するから離して! 俺、あんたを助けたのにこの仕打ちは無いよ!」
「助けた、だと?」
言われて見れば、処置の時に脱がされたのだろう、上半身は裸で、腹や手足に包帯が巻かれている。解放すると、男は匍匐前進で俺から距離を取った。
自称恩人の男は行商人だろうか、荷物を山のように積んだソリが側に停められていた。商売の大事な相棒なのだろう、ソリを引く雪羊竜を庇うように此方を睨みつけている。俺は強盗か何かだと思われているらしい。
急激に動いたせいで、忘れていた痛みが後から襲い掛かってきた。腹を重点的に殴られているような鈍く重い痛みに、俺は堪らず蹲る。寒さに震えているのに、額には脂汗が浮かぶ。
妖刀のひと刺しがこの程度で済んで良かったと思うべきだろうか? あの男が、どういうつもりで俺を生かしたかは分からないが……吐き気がする。
アーシャに会う前は、いつ死んでもいいと思って生きてきたから、治療魔法なんて覚えようとも思わなかった。今、とても後悔している。
「……お前、何が目的だ? 何故、俺を……助けた?」
苦悶しながら問いを絞り出せば、男は顔を真っ赤にして俺の影を指差した。
「何故って、あんたの狼が『たすけろ! さもなくばころす!』って脅してきたんだろう!?」
それは……流石に哀れになってきたな。
言葉を失って黙り込んだ俺を見て、男は訝し気に此方を窺っている。小声で「大丈夫?」だなんて訊いてくるので、笑いが溢れた。
『きょうだい。いきてるか? いたいところ、ないか?』
影の中からシリウスが実体化して、大きな身体を擦り寄せてくる。その温かい被毛に顔を埋めて、ようやく生きた心地がした。
「ああ、大丈夫だ。ありがとうシリウス」
だから、助けたのは俺だってば。と呟く声は、聞こえなかったことにした。
俺はどのくらい寝ていたのだろうか? シリウスの背中にもたれたまま針葉樹に囲まれた小さな空を見上げれば、灰色の空には所々青空が覗いていた。城でセイリーズに相対した時は真夜中だったが……。
あの恐ろしい青い瞳を思い出した途端、何か重要な事を忘れている気がした。ぞわりと肌が粟立つのは、寒さのせいだけじゃない。
まずは服を……と、側に畳んで置かれた服の残骸を見て、血の気が引いた。男が止めるのも聞かず、俺は敷布の上を這って服に手を伸ばす。
「あった……!」
掴んだ時のガサガサした感触に胸が潰れそうに痛んだ。俺は、湖に落ちたのか。一度濡れてしまったから、こんな……。
懐に入れていたアスタヘルからの手紙は、開いた端からボロボロと崩れていく。彼女の言葉が手から溢れて風化していくのを、ただ茫然と見ていることしかできなかった。
「あ……ああぁ……」
どうして。
俺からアーシャを取り上げただけでは飽き足らず、アーシャが俺のために紡いだ言葉さえも奪うのか? どんなに愛していても、どんなに忘れまいとしても、日々記憶は薄れていく。もう彼女の声も表情も朧げなのに。覚えているのは、あの甘く胸を灼き焦がす狂おしい匂いだけ。
「……っ!」
その名を口にするのも穢らわしい。あの男は殺さなくてはならない。
憎い。憎い。殺す。
あの男を八つ裂きにしてもまだ足りない。あの男が大事にしていたものを同じように踏み躙ってやらねば気が済まない。
「ここは何処だ」
クレアノールに戻るにしても、まずは現在地を確認しなくてはならない。
礼儀も何もかもを取っ払った不躾な問いにも拘らず、男は咎めなかった。古い友人を励ますかのごとく、痛みと憎しみに嵌ったまま動けない俺の背中に、毛布を掛けて摩った。
「ここはリェスカの湖だよ。もう少し東に行けばオクシタニア。……ああ、オクシタニアって知ってる? シュセイル東部の田舎だよ」
嫌という程知り尽くしている。生まれてから十五歳まで、あの陰湿な森で過ごしたのだから。
「俺はオルハ。モルヴァナで木工品を作っているんだ。リェスカの街で品物を売って帰る途中だったんだけど、あんたの狼が突然ソリの前に飛び出してきたんだ」
まだシリウスを警戒しているのか、オルハは俺の側から離れようとしない。シリウスが背後を行ったり来たりする度に、びくりと身を震わせている。
「あー、モルヴァナは分かる? ここから東に二十日程の所にある東の果ての街なんだけど……最近はシュセイルも物騒になってね。こんな田舎にも魔物や盗賊が出没するようになってしまった。本当は護衛を雇いたかったんだけど、足元見られちゃってね……」
「……春まで待てば旅も楽だろうに」
この時期に危険を冒してオルハが帰ろうとしたから、俺は助かったわけだが。急いで帰らなくてはならない理由があるのだろうか?
オルハは頷いて、少し誇らし気に笑った。
「うん。でもね、身重の妻が待っているんだ。子供が生まれる前に、なんとしてでも帰らなきゃいけない」
父親になる男とは、こういうものなのだろうか? 俺にはよく分からない情だが……まぁ、悪くはないと思った。
「それなら、俺がモルヴァナまで護衛しよう。タダでいい。助けてもらった借りを返す」
オルハは目を丸くして、あんぐりと口を開けたまま固まった。シリウスに背中を突かれてようやく我に帰る。
「えっ!? いや、ありがたいけど……でもあんた、その怪我で動ける? それに、旅の途中じゃないのかい?」
「俺はベルローザ帰りの元騎士だ。その辺の傭兵共と一緒にしないでほしい。往復で四十日ぐらいなら、遅れたって問題無い」
名誉と義理を重んじるアーシャなら、この男を放ってはおかない。自ら進んで護衛を引き受けるだろう。俺は彼女に相応しい雄狼だから。アーシャの望みは俺の望み。アーシャが望むのなら、そうするべきだろう。
それに、月神が去ったオクシタニアが、今どうなっているか見ものだ。なんて、その時はそんな事を考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます