65 閑話 Ⅵ 舞踏会の夜(ディーン視点)

 エア島王宮にある蒼の広間には、天井画が無い。

 神話のフレスコ画の代わりに天井に広がるのは蒼い空のみ。魔石加工技術の粋を集めて作られた透明な魔石の天井の向こうには、シュセイル人が敬愛する高くひろい空が見える。

 絢爛豪華な広間を抜けて、バルコニーから星の海を見上げながら、ディーンは途方に暮れていた。


 蒼の間では、異母兄フィリアスが婚約者と共に挨拶回りをしている。フィリアスと腕を組む婚約者エルミーナがしきりに扇で煽いでいるのを見るに、フィリアスは相当苛ついているらしい。

 フィリアスの身体に宿る炎の御印みしるしは、時に言葉や表情よりも明確に感情を表す。きっと今、彼の近くはとんでもない熱気なのだろう。

 ディーンに気付いたエルミーナが、助けを求めるような視線を寄越すが、ディーンは気付かないフリをした。


 ダンスフロアを挟んでフィリアスの向かいに人集りが出来ている。その中心では、オクシタニア伯レグルス・セシルの長子、アーサー“アルタイル”・ロイド・セシル卿が柔和な笑みを浮かべていた。腕を絡ませるのは、どこか勝ち誇った笑顔の王妃イヴリーン――それが、フィリアスの苛つきの原因だった。


 王妃イヴリーンが当てつけのように見目麗しい近衛騎士を側に侍らせることは珍しくなかったが、此度のように近衛騎士ではないアーサー卿がエスコートを勤めているのは異例のことである。婚約が決まったエルミーナよりも注目を浴びて、気を良くしている王妃の姿はディーンの目には醜悪に見えた。


 あの様子では、アーサー卿は当分、王妃の側を離れられない。王妃が離さないだろう。

 東部最大の領地を持つ富豪であり、建国期からの忠臣セシル伯爵家は、王妃が推す第三王子イサーク側に付いたのではないかと貴族は騒めいている。下手に突けば、第三王子側に付くこともやぶさかではないという警告と捉えるべきか。


 ――それ程に、今オクシタニアで起きている事件について触れられたくないということか? やはりヒースを行かせるべきではなかった。

 後悔を握り潰すように掴んだバルコニーの手すりにヒビが入る。開いた掌には薄緑の魔力光が灯っていた。


「ヒース……」


 腕輪の魔石が砕けたのだろう。役目を終えてディーンの元に返ってきた風の魔力が、アスタール侯爵邸のダイニングルームを荒らし回って掻き消えたのは昼過ぎのこと。

 万が一の備えとして渡したものの、本当に使うような事態になるとは考えていなかった。事態は自分たちが考えているよりもずっと悪いのかもしれない。


 ――暢気に夜会に出てる場合か? だが、エア島から休まず飛竜を飛ばしてもモルヴァナまで二日はかかる。今、この時点でヒースの力にはなれない。フィリアスが動けない今、自分が動くしかない。あの蛇の巣窟からアーサー卿を連れ出す方法は?

 焦燥に駆られ、今にも暴挙に出そうなディーンの背中に、苦笑混じりの声が掛かった。


「愚弟が何か粗相致しましたか?」


 この世に、ヒースを弟と呼ぶ人間は一人しか居ない。振り返ったディーンの視線の先には、夜を照らす希望が見えた。


「ジェイド殿」


 パールホワイトの夜会服に、白薔薇と一角獣ユニコーンのクレンネル大公家の紋章が入った青のマント。ヒースと同じふわっとした明るい金髪は首の後ろでひとつに束ねている。クレンネル大公家特有の青い瞳は、ヒースのものより切長でキツイ印象だが、こちらに向けられる視線には親愛が感じられた。


「お久しぶりですね、ディーン殿下。クリスティアルがお世話になっております」


「い、いいえ。いつも振り回しているのはお……私の方です」


 苦しげに言い直したディーンに、クレンネル大公ジェイドは銀縁眼鏡の奥の目を細めた。光の貴公子の登場に、夜を彩る燈火が恥じらうように輝きを落とす。ダンス曲の合間なのか、夜会の喧騒が遠ざかる。今居るこのバルコニーだけが切り離されたかのように静かだった。

 バルコニーの入り口には大公の護衛騎士が二人控えて、邪魔者が入らないように警護している。今ここに居るのは大公と自分だけ。しかし、じっとりと身体に纏わりつくような視線を方々から感じた。


『王宮でのお前の言動は常に監視されている。誰と会った。誰に声を掛けた。もっと言えば、誰を見たか。誰を認識したか。そんな情報が常に飛び交っている』

 フィリアスの言葉が重く胸に響く。今自分がクレンネル大公と二人で居る姿は、周囲にどのように見えているのだろう?


「大公殿下にお声がけいただけるとは光栄です。陛下にはもう?」


「ええ。国王陛下とフィリアス殿下にご挨拶して参りました。……早々に追い払われてしまいましたが」


 王家の重臣たちは、シュセイルから独立したクレンネル大公家に強い憤りを抱いている。共にシュセイル王国を支えてきた家門なのにと裏切りのように感じられるのだろう。中には敵意を丸出しに絡む輩も居るので、大公が不快な思いをしていないと良いが……と、ディーンは少し窮屈な襟元を正す。


「それは、とんだご無礼を」


「いいえ。しかし面白い事を聞きました。ふふっ」


 大公は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら少し困ったように笑う。ディーンのすぐ側まで歩み寄ると、一層声を潜めた。


「貴方の力になって欲しい。そう言われました。――何か、お困りのご様子ですが、私にできることはございますか?」


 心の奥底の弱い部分を見抜く、深い青の瞳。親友ヒースと同じ色をしていながら、受ける印象は真逆だった。猛獣とも竜とも違う別の恐ろしい何か。魔性、という言葉が浮かんで、脳裏に張り付いた。


「ご相談が……あります」


 ディーンは緊張に乾いた喉から声を絞り出して、挑むようにその瞳を真っ向から見詰める。

 善い者も悪い者も群がってくるだろう。そう覚悟はできている。目の前のこの男はどちらだろうか? 自分の目で見極めなくてはならない。




 夜は更けて、蒼の間の天井には満天の星が輝いていた。ダンスフロアには色とりどりのドレスの花が咲く。その中央で大輪の花を咲かせるのは、青き瞳の姫君をイメージしたクレアノールスタイルの真っ白なドレスを纏った王妃だった。


 曲が終わり、名残惜しそうにアーサー卿の手を離した王妃の前に、新たな貴公子が手を差し伸べる。その顔を見た途端、アーサー卿が表情を固くしたのが分かったのだろう。王妃は嬉々としてその男――クレンネル大公ジェイドの手を取って、ダンスフロアに戻って行った。


「大公殿下に頭を下げさせるとは……恐れ入りました」


 振り向いたその顔には、先程と変わらない柔和な笑みが張り付いていたが、その口調には鋭い棘を感じた。アルファルドの兄ということは、この男も狼男に違いない。

 ディーンを見据えるエメラルドの瞳には、月を溶かしたような妖しい金色が滲む。女性を森に誘う月神の色香に、周囲の女性陣からうっとりとしたため息が聞こえた。


「アーサー・ロイド・セシル卿、卿にお尋ねしたい事があります」


 穏やかなワルツ曲が、今は重い葬送曲に聞こえる。ディーンがなけなしの礼儀を持って問えば、アーサー卿はくすりと冷笑を溢した。


「お答えしたいのは山々ですが、残念ながら時間切れのようです」


「それはどういう……?」


 ディーンが問いを重ねると同時に、会場の二ヶ所から悲鳴が上がった。突如、走り出したアーサー卿はダンスフロアの王妃と大公の元に駆け付けると、刃物を持って二人に飛び掛かろうする給仕の男を殴り倒し、あっという間に床に制圧した。その間、一分もかからなかっただろう。

 逃げ惑う人々を掻き分けてディーンに駆け寄ったフィリアスは、襲撃者と取り押さえた者を確認して眉を顰めた。


「これは……何があった?」


「どうやら俺たちは、陛下の手の上で弄ばれていたらしい」


 ディーンが睨む先では国王アレクシウスがしてやったりな顔でニヤついている。そのすぐ側では、ヴェイグ卿に取り押さえられた襲撃者が拘束を解こうと暴れていた。




 ***




 国王夫妻襲撃事件の後、舞踏会はお開きとなった。ディーンとエルミーナが止めるのも聞かず、王の執務室に怒鳴り込んだフィリアスは、近付く者が火傷しそうな熱気を放ちながら王に詰め寄っている。


「どういうことなのか、説明していただきたい」


「わかった。わかったから、少し魔力を抑えろって! 大事な書類を燃やす気か!?」


「フン、どうせ大して読んでいないじゃないですか!」


「ぐっ……一理あるが、それを大声で言われると文官が泣くからやめてやってくれ」


 王は執務の手伝いに何故優秀なフィリアスを呼ばないのか。ディーンが長年の疑問の答えを察したところで、回廊の向こうから大公とアーサー卿とヴェイグ卿がやってきた。

 ――まさか、大公もグルだったのか?

 ディーンの疑いの視線に気付くと、大公は曖昧に微笑む。顔はあまりヒースと似ていないが、笑うと少しだけ面影が見えた。


「陛下はお取り込み中のようですね」


「フィリアスがきっちり絞めてくれるでしょう。……それより、何が起きているのか聞かせてもらえませんか?」


 薄く開いた執務室の扉から聞こえる親子喧嘩に、アーサー卿はやれやれと首を振る。


「では、場所を移しましょう。今の王宮は安全とは言えませんので。我が家の竜車でお送り致します」


 胡散臭い笑みを浮かべてアーサー卿が誘う。


「自分は陛下にご報告があるので残ります。大公殿下にもご同席いただきたい」


 いつも通りの固い口調でヴェイグ卿が要請すると、大公は快く了承した。


「エルミーナ、お前はどうする? 俺と帰るか、ここに残るか」


 心配そうに執務室の中を見ていたエルミーナは小さくため息を溢す。答えは問われる前に決まっていたようだ。


「私はここに残ります。フィリアスにはそろそろ頭を冷やしていただかないと」


 せっかく覚えた件の技を試してみたいですし。という不穏な呟きが聞こえた気がしたが、ディーンは引き攣った笑顔で「そうか」と答えるのみだった。

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