64
剣先が彼の胸に浅く刺さって、白い肌に血の筋が滴る。私の手首を掴んだまま彼は甘く囁いた。
「終わらせて。君の手で。もう、解放して」
炎が肌を舐めて、草木が爆ぜる音が間近に聞こえる。炎熱がすぐそこに迫り、皮膚の水分が蒸発しそうに暑いのに、身体の芯は酷く冷えていた。それは、胸に刃が刺さって、冷たい血が内側に溢れたあの時の感覚に似ている。
「……こんなことを繰り返すために、ルシオンは千年待ったの? 違うでしょ? 私は、君と一緒に生きたいよ。君の痛みが和らぐなら、いくらだってそばに居るよ。ルシオンとアスタヘルの時代には見つけられなかった未来のために、私を
金色の瞳に新緑が揺らぐ。頭の中で三者の主張がぶつかっているのだろうか、彼は頭痛を堪えるように顔を顰めて頭を振る。私の手首を掴む彼の手が少し緩んだ。
ルシオンが揺らいだ今、アルに私の声が届いている筈だ。私の声が聞こえたなら返事をしてほしい。終わりを望んでいるのはルシオンで、アルファルドじゃないと否定してほしい。
「
ルシオンがいつからアルの心に住み着いたのかは分からない。アルは御印を持って生まれたから、御印の記憶を見始めたのは、私と会う前からかもしれない。
繰り返すルシオンの悪夢に苛まれ、アルは自分の心の中にルシオンの居場所を作った。辛い経験をして苦しんでいるのはルシオンであり、アルファルドではないのだと思うことで自分の心を守っていた。
それで一時アルの心は救われたが、ルシオンの心は膿んだまま残り続けた。アルがいつ頃炎の夢を見始めたのかはわからないが、ここ一、二年の事だろう。アルが婚約を申し入れに来た前後じゃないかと思う。その時、アスタヘルによく似た私を見たことが引き鉄になったのかもしれない。
アスタヘルとの幸せな思い出と、地獄のような炎の記憶。ルシオンは飴と鞭を使いこなす狡猾さでアルの心を侵略して、主導権を奪っていった。
私と和解して
私が今ここでルシオンが望むように殺したとしたら、御印は次の宿主に移り、今度はルシオンとアルファルドの苦しみが伝播する。そうして狂気に染まった月神の器は、また
『同じ運命を繰り返すだけなら、育んだ思いを手放してまで新しい器に生まれ変わる意味は無いんだ』父さんの声が脳裏を過ぎる。
私たちに生まれ変わった意味があるのなら、それは、永遠に続く愛憎の連鎖を断ち切ることだ。こんなことは、私たちの代で終わらせよう。
「ごめんなさいルシオン。私では貴方を解放してあげられない」
手放した短剣が大地にさくりと突き刺さる。困惑と落胆がルシオンの目元に影を落とす。するりと離れた彼の手を、今度は私が掴んで、今にも沈みそうなルシオンの心に呼びかけた。
「アスタヘルは、自分が死んでも貴方が生きていけると思っていた。貴方にかけた言葉が呪いになってしまったことに気付けなかったんだ」
彼の両頬に触れて、どんよりと濁った金の眼を覗き込む。こんなに近くに居るのに、触れているのに、急速に閉じていく心が遠い。今を逃したら、二度とアルに届かないのに!
焦燥に駆られる私の足に、ふわりと温かく柔らかいものが触れた。いつからそこに居たのか。否、私がここに来た時からだろう。私の足元に佇む銀狼は、私の視線に気付くと、ふわふわした身体を擦り寄せてくる。
大丈夫だ。貴女は間違っていないと背中を押された気がした。
「……アスタヘルは、貴方の思いがアルの中に住み着いて現世を彷徨っていることを知って、私に助けを求めてきたんだ」
私が指し示すと、ルシオンは億劫そうに視線を動かした。胡乱な眼が驚きに開かれていく。
今なら貴方にも見えるだろうか? 貴方を心配そうに見詰めている銀狼の姿が。
「アーシャなのか……?」
私の足元に控える銀狼は耳をピクリと動かして小首を傾げる。肯定しているようにも『そうだけど?』と少し挑発的に言っているようにも見えた。
「私をここに連れて来てくれたのは、この仔だよ」
魔物のハティは月神の神気に怯えて踏み切れなかったが、銀狼は私と共に空の裂け目に飛び込んだ。彼女も自分の番を救出しに来たのだろう。月神に招かれている私と一緒なら神域に入れると、私が来るのを待ち構えていたのかもしれない。
「この森に残された月女神の残滓。その中にはアスタヘルの思いも含まれている筈だよ」
月女神を迎える準備を整えた今の森にだけ、彼女たちは存在できる。月神がアルの身体を器としているように、月女神が私の身体を器にするには、今でなければならなかったのだ。
「――言ったでしょ? 『私たち、また逢える』って」
見開かれた金月の眼に涙の雲がかかる。『やっと逢えた』そう呟いたのはどちらだろう?
「ああ……」
深いため息の後に、アルの身体から金色の光が抜け出た。銀狼はすかさず光の端を噛んで、ずるりと引っ張り出す。金色の光は二つに裂けて、ひとつは金色の狼の姿になって銀狼の側に寄り添ったが、もう一方は形を保てず霧散していった。
今消えたのは、月神の残滓だろうか?
私はぐらりと傾いだアルの身体を抱きとめて、きつく抱きしめた。
「捕まえた! このっ……ばか犬!」
脱力した男性の身体は重い。一旦寝かすかと思った瞬間、すっと身体が軽くなり、抱きしめ返された。
触れて、なぞって形を確かめるように私の背中を撫でる無骨な大きな手。顔を埋めた彼の首筋は花と香木の良い香りがする。
――アルの香りだ。
ずっと一緒に居た筈なのに、もう何十年も離れていた気がする。彼の香りが懐かしい。
「つらいなら、苦しいなら、そう言って。私たちは横着しないで、もっと話をしなきゃ……言わなきゃ何も分かんないよ。私も、君も」
自戒を込めてぎゅっと抱きしめる。寄せ合う頬が温かくて、胸に刺さった千年の棘が溶けていく。
やっと、本当の君と再会できた。もう見失わないように、しっかり捕まえていなきゃ。
「セラ……苦しい。……苦しい、けど、もっと強くして」
「そういうことじゃないんだけど……うん、まぁいいか」
私が腕を弛めると、アルは名残り惜しそうに腰を引き寄せた。ぴたりと額をくっ付けて、鼻先が触れ合う。アルが顔を傾けて、唇が重なる寸前。わざとらしい咳払いが遮った。
「盛り上がってるところ悪いけど。お二人さん、僕のこと完ッ全に忘れてません? 流石にもう限界なんだけど……そろそろ火を消していいかな?」
「あっ……! ご、ごめんヒース。もう大丈夫ありがとう!」
慌てて飛び退くと、アルは物足りなさそうに唸った。
私たちを守るように取り巻いていた炎の壁が、みるみる小さくなって消えていく。ヒースは険しい顔のまま黒煙が昇る大地を見回した。
「さぁ、帰ろうって言いたいところだけど、そう簡単に逃がしてはくれないみたいだよ」
焼けた大地を花が覆っていく。花は媚びるように私たちの手足に蔓を伸ばして引き止める。軽く手を払えば簡単に解ける弱々しい懇願。アルの心に干渉し続けた月神は、魔力を使い過ぎて、もう花を操れない程に弱ってしまったのだろう。
「先に行って。私は、月神に話がある」
「セラ……」
私の手を握ってダメだと首を振るアルの手をやんわりと解く。
「大丈夫。月神は器を追い出された。あと数百年は悪さはできないよ。私よりもヒースを気遣ってあげて。君を取り返すために大怪我をしたんだから」
アルは渋々といった顔で頷いて、座り込んだままのヒースの方に向かった。
「さて、どうしてくれようか」
私の足元に寄り添う金銀の狼は、花畑のある一点を見詰めていた。おそらくそこに月神が隠れているのだろう。
***
「立てるか?」
アルファルドが膝を抱えて蹲るヒースに声を掛けると、ヒースは俯いたままゆるりと首を振った。傷を治しても失った血や体力までは戻らない。座っているのも辛いのだろう。
アルファルドはヒースの背中に手を当てて、樹の魔力を流し込んだ。ヒースの魔力に同調させて治癒力を上げようと試みたが、まるで手応えが無い。
深い空洞に、バケツいっぱいの水を注いでも底を打つ水音すら返ってこない。ヒースはどれ程の魔力を秘めていたのか、底が知れない。溜め込んだ魔力を一気に使ってしまったので、完全に回復するには何年も掛かるだろう。
「大きな樹の下で父上が手を振ってるのが見えたよ。まったく、とんでもない大冒険になっちゃったなぁ」
「土産話にちょうど良いじゃないか」
「ははは……」
身体に魔力が通って少し楽になったのか、ヒースは疲れた顔で笑った。掠れた声が痛々しくてアルファルドは触れる手に更に魔力を込める。肩を貸して立たせると、ヒースは苦しげに呻いた。
「うっ、あいたたたた……ちょっ、もっと優しくして!」
アルファルドが虚空に手を翳すと、花畑の空に亀裂が入った。割れた空の向こうには、雪化粧した真冬の森が見える。
「………………悪かった。ごめん」
ヒースを支えながら亀裂を潜る瞬間、視線を合わせずにアルファルドはぽつりと溢した。唖然としたヒースは何を思ったか、澄ました横顔に勢いよく頭突きをかます。
「痛っ! おい、暴れんな!」
「ははっ……ああ、
その時ちょっぴり涙目になったのは、アルファルドが石頭だったからだとヒースは言い張った。
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