楽園に吹く風
Ⅸ 遠き故郷の狼
63
蛸のように根が動き、花畑の上を移動するのを目の当たりにしなければ、極光と銀の森と花畑が作る美しい光景に、言葉を失くして立ち尽くしていたに違いない。
この世の美しいものを集めて所狭しと飾った
月神の誘いの手を振り切って、アルとヒースを連れて帰るにはどうしたらいいのか。選択肢は少ない。
「森を焼き払ってほしい」
私が選んだ答えに、ヒースは困惑しながらも了承してくれた。
「……分かった。けど、勝算はあるのかい?」
ヒースの眼に予言の力は無いそうだ。それでも、聖王セイリーズの魔眼によく似た神秘的な青の瞳に見詰められると、心を見透かされているようで胸が騒めく。私の弱気や不安を見抜いたら、ヒースだって不安になるだろう。
だから私は「ある」と、力強く頷いた。
今あの身体の中では、アルと月神とルシオンの三人の心が鬩ぎ合って、主導権を争っている。アルを救うためには、アル以外の二人を追い出さなくてはならない。
月女神の魔弓から放たれる矢は、獣と神を殺す矢。アルの身体から神獣化した月神だけを引き剥がせるかもしれないと、魔力を射出してみたが効果は無かったようだ。やっぱり矢を使わなければいけないのだろうけど、矢を射ったらアルに致命傷を負わせてしまう。
アルに届かないのなら、狙いを変えてルシオンに訴えかけるしかない。悲しいことに、私はルシオンの心を動かす方法に心当たりがある。ルシオンが応えて三つ巴の均衡が崩れれば、結束に揺らぎが生まれる。その時こそ、私たちの声がアルに届くだろう。
「弱味に付け込むみたいで、やりたくないけど、でもやらなきゃ。……ルシオンに呪いを掛けた者の子孫として、ルシオンも救いたいんだ」
愛し合う人に殺して欲しいと願うなんて、呪い以外の何ものでもない。アスタヘルの願いがルシオンの心に与えた傷は、
森に還らず御印にしがみつき、本来は愛し護るべき子孫を呪うルシオンの妄執。解放しなければ、本当の終わりは来ない。
「了解。短剣に残った魔力を解放したら、僕は完全に無力になっちゃうからね。しっかり護ってよね女神様?」
ルシオンって誰? とか、何をする気? だとか、ヒースは何も聞かない。私がヒースと一緒に過ごした時間は、アルやディーンとは比べ物にならない程短い。けれど、ヒースの態度には確かな信頼と友情を感じて、胸がじんわり温かくなる。
「任せて! 全員で帰るぞ!」
「おー!」
場にそぐわないゆるい掛け声に気が抜けて、余分な力が抜けていく。私はヒースと拳を合わせて、ゆるんだ頬で笑った。アルもヒースも、ここで死なせるわけにはいかない。必ず連れて帰る。
私はまだジクジクと痛む足を押さえて、ゆっくり立ち上がり両腕を広げた。
「アル……アルファルド。射ってしまってごめんね。怪我は無い?」
敵意が無いことを示すために弓矢をその場に捨てて、月神に手を差し伸べる。
月神は花畑に伏せたまま、ピンと耳を立ててこちらの様子を窺っている。私がヒースから離れる瞬間を狙っているのだろう。だが、そうはさせない。
『いたい。いたいの。るーねがわたしをうった。ひどい。いたい。かなしい』
少し舌っ足らずな少年の声、甘やかな青年の声、低く厳格そうな男性の声、嗄れた老人の声……頭の中にいくつもの声が重なって聞こえた。
森に吸収され、月神の残滓に同化した歴代の月神の器だろうか? その中に、アルの声は聞こえなかった。まだ呑まれてはいないと信じたい。
風も無いのに揺れる花々が『いたい。いたい』と繰り返す。声はどんどん広がって、私たちを囲む銀の樹々も身を捩って合唱を始めた。寄って集って糾弾されているようで、ここに来て初めて恐怖を覚えた。
そして、気付く。私は今やっとアルを苛む声の正体に辿り着いたのだと。
こんなものが四六時中聞こえていたのだとしたら、どんなに辛かっただろう? それでも君は何でもない顔で、私の優しい恋人で居てくれたのか。
彼の心情を思うと、また涙が零れそうだった。でも、泣いたって月神は諦めてくれない。アルだって、憐んでいる暇があったら助けてくれと思っているだろう。
森の大合唱を打ち消すように、私は声を張り上げた。
「アルファルド。聞こえたら返事をして! 私、君に謝りたいんだ!」
『るーね、こっちへおいで。わたしはここにいるよ』
おいで。おいで。と花は頷くように揺れて誘う。手足に擦り寄り、絡み付いて媚びる花が不快な湿度を帯びる。
月神の声には答えず、私はアルを呼び続ける。
「ねぇ、アル。私は自分のことばかりで、君の心が傷んでいたことに気付けなかった。……君の本心を聞くのが怖くて、異変に気付かないフリをしていたんだ。ごめんね……アルファルド。ごめんね」
必死に押し殺していたつもりが、私の声は裏返って嗚咽が混じる。月神は慌てたように花を掻き分けて姿を現した。立ち上がると見上げる程の巨体を丸めて、ボロボロに裂けた服を纏う獣頭の神は、悲しげにくーんと鼻を鳴らす。
『るーね。いとしい、わたしのるーね。なかないで。きみはなにもわるくない。ここには、きみをきずつけるものはない』
鋭い鍵爪が生えた前足をこちらに差し出すと、掌から銀色の月光花が溢れていく。溢れ落ちる花が甘い香りを振り撒く度に、届かない言葉が胸に詰まってズキズキと痛んだ。
香りは記憶を呼び覚ます。今私の胸に込み上げる思いはアスタヘルのものか、月女神のものか。彼女らも“彼”の現状を憂えている。私に力を貸すために寄り添ってくれているのが分かる。
ふと、私に御印の夢を見せていたのは月女神なのかもしれないと思い至った。ならば、今こそ月神を貴女にお返ししよう。
「……私が話したいのはアルファルドだ。月神でもルシオンでもない! 私の番を返せ!」
後ろ手でヒースに合図を送ると、ヒースは短剣を地面に突き刺した。その瞬間、私たちを中心に炎が巻き起こり、大地を舐めるように燃え広がる。すぐ側に迫っていた銀の森は焼き払われて、花は『いたい。いたい』と泣きながら灰になっていく。
炎が起こす風に弄ばれて、私の髪は振り乱したようにぐしゃぐしゃに乱れた。私はスカートの中に隠していた短剣を抜いて、その鋒を目の前の獣に向ける。
取りに行く時間が無くて、剣はこれしか持って来れなかったけれど、大事なのは私が彼に剣を向けるという姿。――あの日、炎の中でルシオンと対峙したアスタヘルの姿だ。
『いやだ……いやだ、やめてくれ! おれに、けんをむけないで!』
悲鳴を上げて後退る彼に、私は剣先を突き付けた。大きく見開かれた眼には、あの日と同じ絶望が浮かんで激しく揺れ動く。狙い通りルシオンが表面に出て来たようだ。
『おれはきみの、つがいだ! あーしゃ、どうか、やめてくれ……』
「私は、お前みたいな獣は知らない! 言いたいことがあるのなら、自分の口で話せ!」
ピシャリと跳ね除けると、金狼はぐうと唸って頭を抱えた。黄金のダイヤモンドダストが彼の身体を包んで収束していく。光の粒子が消えた後には、人型に戻ったアルファルドの姿があったが、その瞳は満月のような金色をしていた。
――ああ、ルシオン。
私の胸の奥で、アスタヘルが彼の名を呼ぶ。懐かしさと共に愛おしさが溢れて視界が滲んだ。
最期を迎える直前、アスタヘルはルシオンの中に世界の守護者足り得る輝きを見出した。彼はもう、私が居なくても大丈夫だ。光の道を歩いていけると。けれどそれは……。
「アーシャ……剣を納めてくれ。俺は、君と争うために千年待ったんじゃない」
艶かしく響く低い声音に、全身を巡る血が熱を持った気がした。その身体はアルファルドのものの筈なのに、裂けたシャツからのぞく肌の色香に目眩がする。
悲しげに私を見詰めるその金色の瞳には、あの日の炎と手にかけた最愛の人の影が映っているのだろう。そう仕向けたのは私なのに、目の前に居るのはセリアルカなのに。そう思うとつい、言葉は剣呑になる。
「嫌だと言ったらどうする? もう一度私を殺すか? ルシオン」
残酷な問いに、ルシオンは歯を食いしばってかぶりを振った。思いが伝わらないもどかしさに苦悶しているのは、ルシオンの方も同じだ。
「俺が君を殺すわけない! もう二度と君を傷付けはしない!」
「本当にそう? 月神は思い通りにならない私を殺して、この森に取り込もうとしているみたいだけど。貴方もグルなんじゃないの?」
「……ッ、違う!! そんなこと、俺は絶対に許さない!!」
ルシオンはそう言い切って私の腕を掴み、自分の方に引き寄せた。短剣の鋒が彼の胸に触れて血が滲む。
「君を、殺したくなかった。あの日の悪夢を繰り返し見て、俺は夢の中で何度も君を殺す。君を刺した感触がこの手を離れない……冷たい肌の温度が、千年経っても忘れられないんだ……。君を傷付けるぐらいなら、俺が、死ぬべきなんだ」
ルシオンは私の手首を掴んだまま、「さあ」と促した。剣を引きたくても、ルシオンは手を離してくれない。逃がしてはくれない。
千年待ち続けた解放の時を前に、金色の瞳には恍惚が浮かぶ。ルシオンはやつれた顔で、この上無く幸せそうに笑って最後の一押しを待っていた。
これが、貴方の望みだと言うの? 私たちは、このために千年を越えたの?
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