62 閑話 Ⅴ 冷たい炎(ディーン視点)
直したばかりの上着に袖を通し、襟を正して鏡の中の不貞腐れた貴公子を睨む。シュス族の竜騎士の正装を元に作られたシュセイルの礼装は、華美な装飾を廃した一見質素なものだ。故に、素材の良し悪しが鮮明に表れる。
約一年で伸びた身長と、身についた筋肉によって、去年の礼装が着れないことが発覚したのが三日前。アスタール侯爵家の優秀な使用人たちが、嫌がる若君を捕まえて採寸し直し、リフォームしたお陰で何とか当日に間に合った。
三日前にはボタンが留まらなかった肩や胸周りも今はすっきりしている。短かった上着の袖やスラックスの丈も問題無い。礼装の直しが終わってしまったのなら、夜会に出なくてはならない。やり遂げたと健闘を讃え合う使用人たちに水を指しても悪いし……と珍しく空気を読んだディーンは長く大きなため息をついた。
『風が読めるんだから、たまには空気も読んでくださいよ』とザファに釘を刺されたことが理由ではない。断じて、ない。
ディーンはどうにも落ち着かず、何度もタイを結び直してはため息をつく。服に着られている気がして気恥ずかしい。
『髪を整えて綺麗な格好をすれば、なかなかに見えるのだから、普段から気をつければ良いのに』夜会慣れした親友は、以前そのように好意的に評してくれたが、礼装を纏う度に父王の若い頃の写真が脳裏にチラついて、ディーンは複雑な思いになる。
学院では家名を名乗らないが、これだけ似ていればそろそろ王家との繋がりを疑うものも出てくるだろう。最近は頻繁に王宮に呼ばれるので、今まで顔を合わせることの無かった下級貴族や近衛騎士団以外の騎士に会うことも増えた。
春に学院に戻れば、噂が広まって善い者も悪い者も群がってくるだろう。今までのように自由気侭には居られない。大人に成りきれない曖昧な時間はあと僅かしかない。母が死んだ時には、早く大人になりたいと願っていたのに、今は止まることのない時の流れの速さに戸惑っている。
何度目かのため息が溢れたディーンの背中に、少し気怠げな声が掛かった。
「準備はできたか?」
振り向けば、衣装部屋の入り口の壁にフィリアスが腕を組んで寄り掛かっていた。ディーンと同じく黒を基調とした一見質素な礼装に身を包み、部屋に蟠る紅い夕闇の中に溶け込んでいる。
相変わらずの悪人面だが、礼装を纏うといつも以上に近寄り難い迫力がある。これが、王族たる気品というものだろうか? 自分には無いものだと、ディーンは肩を竦めた。
「おう。いつでも行ける」
そう言いながら、ディーンは少しきつい首周りを指で引っ張る。少々苦しいがあと二、三時間ぐらいの我慢だと伸ばすのは諦めた。
「……イサークに会ったそうだな」
袖のボタンを留めながら、ディーンは鏡の中に映るフィリアスを見やる。ディーンのものと同じ、北の空の色をした瞳は冷たい光を宿していた。面倒なことになったとディーンは首を回しながら天を仰いだ。
「ああ。王宮から帰る時にすれ違った」
「それだけか?」
何故そんなことを訊くのか。父王やザファが告げ口するとは思えない。フィリアスには別の情報網があるのだろう。だが、そもそも悪いことをしたわけではないのだからと、ディーンは開き直った。
「なんだよ。いちいち報告しろって言うのか? 会ったことを知ってるんなら、何があったのかも知ってるんだろう? 説明も弁解もする気は無いぞ」
はっと鼻で笑い飛ばし、フィリアスはシワの寄った眉間を揉み解す。その身に炎の
「王宮でのお前の言動は常に監視されている。誰と会った。誰に声を掛けた。もっと言えば、誰を見たか。誰を認識したか。そんな情報が常に飛び交っている。皆、お前が王太子になった後の政局を見据えているんだ。軽はずみな言動は、お前自身だけでなく、俺やアスタール家の者、お前の側に付いた者たちを危険に曝す。――よく、考えろ。あれは、お前が危険を冒してまで救うべき相手だったか?」
王妃イヴリーンと、その息子イサークに対するフィリアスの憎しみは深い。母が違うとはいえ、血の繋がった弟を“あれ”と言わせる程に。
フィリアスは、ディーンがイサークと関わることを良しとしない。フィリアスの母カタリナ妃を精神の病と偽り、王宮から追い出した王妃派の所業を思えば、警戒するのも当然のことと理解はできる。
だが、監視だけでは飽き足らず、ディーンの交友関係にまで口を出されるのは納得がいかなかった。
「俺は、玉座を望んだことなど一度もねえよ。俺はお前と目指す場所が同じだと思ったから、お前と手を組むことにしたんだ。それは、お前の言いなりになるってことじゃない。俺は正しいと思うことをしただけだ。あいつが誰だとか、そういうのは関係無い」
鏡の中のフィリアスは鷹揚に頷いて目を細めた。眩しいというよりは、諦めと憐れみを押し殺し無理やり笑みを形作ったような歪な笑顔だった。
「たとえそれが、ベアトリクス卿を謀殺した王妃の子でもか?」
「お前、いい加減にしろよ。……母上の事は王妃があやしいというだけで、証拠は何も無いんだ。それに、イサークが殺したわけじゃねぇだろうが」
母の死を政治利用された気がして、カッと頭に血が昇ったがなんとか一度は堪えた。この衣装部屋にはベアトリクスの愛用品が残っている。ここで言い争うのは、母の思い出を汚してしまうようで憚られた。
「……さすが、王太子となる御方は寛大だな。随分と異母弟が可愛いらしい」
「そんなんじゃねぇって言ってんだろう!?」
二度目は堪えきれず、ついにフィリアスの胸ぐらに掴みかかった。しかしその程度でフィリアスが怯む筈もなく。ディーンはすぐに手を離した。
王宮には魔物が潜んでいる。それは、もしかしたら自分とよく似た空色の瞳をしているのかもしれない。
王妃とフィリアスの争いを目の当たりにする度に、ディーンは言い知れぬ不安を覚えた。いつか、道を違えた時、王宮の魔物と化したフィリアスに対峙する日が来るのではないかと。
「やれやれ。青臭くて見てられませんねぇエルミーナ嬢?」
場違いな程に呑気な声が割って入って、ヒリヒリと灼けつくような空気が和らいだ。気まずそうに眉を顰めたエルミーナの隣で、彼女を案内したザファが大袈裟に肩を竦める。
「エリー……迎えに行くと言ったのに」
バツが悪そうにくしゃっとした顔で笑うフィリアスに、エルミーナは扇子で口元を隠して涼しい視線を送る。
「私が来て正解でしたね。これから王宮に乗り込むという時に、わざわざ仲間割れしなくてもよろしいでしょうに」
「仲間割れじゃねえよ。こいつがしつこいだけだ」
ディーンが鬱陶しそうにフィリアスを指し示すと、フィリアスも負けじと横目で睨む。
「はぁ……脳筋を相手にすると疲れるな」
「んだとこら」
「はいはい、そこまで。……ではエルミーナ嬢。デケェ子供二人でお辛いでしょうけど頑張ってくださいね。ゴリラを大人しくさせる方法は先程お教えした通りです。慌てず落ち着いてやればできますので」
「エリーになんて事を教えるんだ……」
「そのゴリラっての、まさか俺たちのことじゃねえよな?」
エルミーナとザファは顔を見合わせて、にっこりと微笑んだ。
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