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 手元に残ったのは、火神の祝福を受けた短剣だけだった。神獣を相手にするには、あまりにも貧弱な装備に焦りが募る。ヒースは短剣を構えて牽制しながら、必死に突破口を探した。


 時間は充分に稼いだ。予定通りならば、セリアルカが月女神ルーネになっている筈だ。しかし、月神セシェルの目的が判明した今、セリアルカがここに来れば相手の思う壺。今すぐに神域から脱出して、セリアルカを止めなければならない。


 ――今までのような戦い方では、間に合わない。

 悲壮な決意を固めて、ヒースは短剣のきっさきに魔力を繋ぐ。


「僕の知るアルファルドは、ちょっと怖いぐらいにセラが好きで、セラを傷付ける者を決して赦さず、セラを守るためなら何でもする奴だった。隙あらばセラを独占して、二人きりの時間を誰かと分け合えるような奴じゃなかった!」


 月神は耳をピクリと動かして首を傾げる。金色の眼を細めて、嘲笑うように唸った。ヒースは構わず続ける。


「セラを手に入れたとしても、きっと君は満足しないよ。今を生きているセラと向き合わなかった事を後悔して、クヨクヨウジウジこの森に引き篭もって、また新たな月女神が生まれるまで何代もセシル家を苦しめる気なんだろう?」


 それの何が悪いのか。とでも言いたげに、月神は鼻で笑う。花畑に上半身を屈めて四つ足を着き、獲物を狙う様は獣そのもの。ただの獣に成り下がるアルファルドを、ヒースはこれ以上見ていられなかった。


「セラはアルのために月女神になるんだよ。君は、その意味が分からない? ……そんな大馬鹿野郎をつがいにしたなんて、月女神は見る目が無いんだね」


 自分の無能さに絶望していた頃、ヒースはどんなに理不尽な目に遭っても、顔に美しい笑顔を貼りつけて堪えていた。

 酷い罵倒を浴びても健気に微笑む美少年の姿は、庇護欲をそそる。正義感に駆られた人々が挙って味方してくれるのを、冷めた目で見ていた。

 それが卑しい優越感から生じる憐れみだと知っていたから。それでも、彼らの憐れみに縋るしかないと思っていたから。


 魔法が使えない自分は、他人を傷付けることなんてできない。自分は常に弱者で、被害者だ。助けてくれると言うのだから、助けてもらおうじゃないか。勝手に優越感に浸っていればいい。

 そんなヒースの醜い仮面を見抜いたのが、アルファルドだった。


『助けてもらえるのが当然だって思っているのなら、いつも通り被害者ぶって笑っていればいい』


 ずっと味方で居てくれたディーンすら信じられなくて、自分に向けられる友情と期待が、いつしか煩わしく感じていた。あの頃、ディーンとどんな話をしたのか思い出すことができない。ヒースは、不実な親友だった。

 だから、劣等感と罪悪感に膿んでいた心に、その言葉は真っ直ぐに突き刺さった。


『――君を信じて庇った君の親友は、見る目の無い大馬鹿者だ。君がそんなクソ野郎だって見抜けなかったんだからな』


 あの日、自分をどん底から引き上げた彼は、誰よりも強い孤高の狼だった。そのアルファルドが、獣のさがに負けるところなんて見たくない。

 戦わずに諦めたのは自分なのに、世界を恨むばかりだったかつての自分を見ているようで我慢ならなかった。


「どうか、君を選んだセラを後悔させないでくれ。今の君たちを、僕は祝福できないよ……」


 こんな形の意趣返しは望んでいなかった。それは後から笑い合える清々しいもので、胸が空くような爽快なものだと思っていたのに。


 ヒースの必死の懇願を花は嘲笑った。まるで二人の不和を喜び、更なる衝突を煽るような底意地の悪さで、ざあざあと愉しげに囃し立てる。月神の耳には花の嗤い声しか届いていないのだろう。どろりと濁った金眼は無感動にヒースを見詰めていた。

 振り上げた言葉の刃は、アルファルドに届くことなく折れてしまったのか。ヒースの胸には虚しさばかりが募った。


『いいのこすことは、それだけか? じつに、たいくつな、えんぜつだったな』


 フンと鼻を鳴らし月神は欠伸を噛み殺す。のそりと巨体を揺らし、金色の獣は霧の中に身を隠した。


『へびのかんげんに、そそのかされおちた、おまえのしゅくふくなど、いらぬ。このもりに、さいやくをもちこんだ、おろかものめ!』


「堕ちた……だと? それは、どういう意味だ!?」


 うんざりする程蛇に好かれるヒースは、この森に来てから一度も蛇を見ていない。それは月神が、月女神に悪意を吹き込んだ黒蛇――闇と欲の女神ネフィス――を憎み、この森の蛇を根絶やしにしたからだと云われている。


 蛇の甘言を受け入れたのは月女神だった筈だ。なのに、唆され堕ちたとは? 白薔薇が力を発揮できない理由がそこにあるのだろうか? 災厄を持ち込んだとは? だから森に入った瞬間、御印みしるしを剥がされそうになったのか?

 突如湧いた疑問に、ヒースは大きく動揺した。


「君は、一体何を知っているんだ……」


 月神は我儘で傲慢だ。脆弱な人間を動揺させるためだけに嘘を吐く必要が無い。そして、月神はヒースの疑問に丁寧に答えてくれる程優しくはない。知りたいのなら、何としてでも生き残って、情報を吐かせなければならない。


 相変わらず、暗い嗤い声が霧の中を移動している。太陽はとうに天頂を過ぎ、森に刻々と夜が迫る。

 ヒースは周囲を警戒しながら月神の位置を探るが、魔力を帯びた濃霧が気配を拡散させて一向に居場所が掴めなかった。

 視界が悪く、聴覚が拾うのは花の囁きばかり。


 このままでは、時間を浪費してしまう。ヒースは意を決して、ぼんやりと赤く光る短剣を振って月神を誘った。

 こんな時、魔法が自在に使えれば、炎を起こして霧を吹き飛ばすことができるのだろう。だが、短剣に残った火神の加護を使うのは、今ではない。――覚悟は既に決まっていた。


 緊張が最高潮に高まったその時、空を覆う緑の極光オーロラが揺れて太陽の光が翳った。極光が揺れる時、それは何らかの大きな魔法が発動した時。

 ――月女神が来てしまったのか?


 焦るヒースの注意が逸れたほんの一瞬。霧の中から月神が強襲しヒースの左腕に喰い付いた。

 ずらりと並んだ牙が皮膚に深く食い込み、みしみしと嫌な音を立てて万力の如く骨を圧し潰す。抱くように背中に回された前脚の爪が肩を切り裂いて、ヒースは悲鳴を呑み込んだ。


「ぐ、うっ……赤い、牙が抜けたからってっ……噛み癖、つけてんじゃないよ!」


 短剣を握った右手で殴り、腹を蹴っても月神は怯まない。一度獲物に喰らい付いた獣に、もう人の言葉は通じなかった。御印ごと喰い千切ろうと更なる力で締め上げられ、ヒースはついに膝を着いた。


「アル……もう、君には届かないのか?」


 失血に朦朧としながら、ヒースは短剣の柄を握りしめた。赤く光る剣身から炎が迸る。体力魔力生命力、全て限界に達していた。これが最後の一撃となるだろう。


 ヒースの思惑通り、深く喰い付いた月神の喉元はガラ空きで、今なら確実に息の根を止められる位置にある。

 自分が傷付く覚悟はとうの昔に決めた。だが、従兄弟いとこを死に至らしめる覚悟は?


「アルファルド……なぁ、頼むよ、兄弟。僕にこんなことさせないでくれ……」


 再度の懇願も虚しく、月神はヒースの腕を引き千切ろうと顎を上げた。もはやこれまでと、苦い決断を噛み締めて短剣を構えたその時、銀緑の風が濃霧を吹き飛ばした。


「双方、動くな!」


 声はヒースの背後、上空から聞こえた。月神は、その声の主を見るなりヒースの腕を放した。倒れ込んだヒースの姿など見えていないかのように、獣頭の神は眼に涙を浮かべて彼女に歩み寄る。千年待ち望んだ再会に歓喜して、忠犬のようにふわふわした尻尾を振る。

 だが、今代の月女神の怒りは凄まじかった。


『るーね……るーね。あいたかった。きてくれるとおも……っ!?』


 銀緑の矢が直撃して、皆まで言えずに月神の身体は遠くに吹き飛んだ。花畑に横たわったまま目撃したヒースは、思わず「ひぇっ」と悲鳴を溢す。

 怒れる月女神セリアルカは花畑に着地するなり、月神を無視してヒースに駆け寄った。セリアルカはヒースの身体に群がる花を引き千切って、上半身を抱き起こす。


「ヒース! 大丈夫? 生きてる!?」


「し、死んだかも!!」


「よし! 生きてる!」


 よしじゃない。全然よしじゃない。

 ぽつんと頬に落ちた雫が傷に滲みて、ヒースは苦笑いしながら抗議の言葉を呑み込んだ。気丈なセリアルカが必死に涙を堪えて、くしゃくしゃの顔で唇を噛み締めているのを見てしまったら何も言えなかった。


 セリアルカはポケットから包帯を取り出して封を切る。その瞬間、包帯は光の帯になってヒースの身体に巻きついた。浅い傷がみるみる塞がっていくのを横目に、セリアルカは更に包帯を追加する。


 余程酷い傷だったのか、五巻目の包帯の封を切ったところで、ようやく全ての傷が塞がり、ヒースとセリアルカは安堵の息を吐いた。


「ごめんね。君をここまで巻き込みたくなかった……ごめんねヒース」


 ついに決壊してしまったセリアルカの涙を指で拭って、ヒースは困った顔で笑う。


「泣かないでセラ。君のせいじゃない。僕が、あんなアルを見ていられなかっただけだから」


「だからって、こんなボロボロになるまで頑張る必要無いだろう!?」


「だって、あいつが逃してくれなかったんだもん」


 バツが悪そうに唇を尖らすヒースに、セリアルカは眉根を寄せて月神が吹き飛んだ方向を見た。いつの間に復活したのか、捨てられた犬のようにしょんぼりと耳を垂らした金狼が、花畑の中から恨めしそうにヒースを睨んでいる。


「セラ、早くここを出よう。月神の目的は、この森に君を取り込むことなんだ」


「分かってる。……ヒース。最後にひとつ頼みがあるんだ」


 そう言ったセリアルカの目線の先には、赤い魔力光を放つヒースの短剣があった。

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