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 壊れたオルゴールが歌い続ける間、アルファルドは使い魔のオリオンを呼び続けた。花畑を忙しなく歩き回り、愛しいつがいの側に控えているであろうオリオンに向けて思念を飛ばす。しかし、いくら呼んでも応答は無い。城に居るその他の森の民に呼びかけてみても、応える者は誰も居なかった。


 その間ヒースは花畑に両膝を着いたまま、体力と魔力の回復に努めていた。動かずにじっとしていると、じわじわと手足が温かくなる。震えは収まり、指の感覚が戻ってきた。


 神話の森は太陽と月の兄弟神の故郷。恩恵を受けるのはアルファルドばかりではない。ヒースにもその資格はあるのだが、受けるのは恩恵だけとは限らない。その呪いに等しい業を背負うのもまた同じ。


「な、んだこれ……?」


 ヒースの口から溢れた呟きに、アルファルドは目を瞠った。慌てた様子でヒースの元に駆け寄ったアルファルドは、ヒースの腕を掴んで花畑の底から引き上げる。


 ぷちぷちと音を立てて、ヒースの手足に根を張り始めた花が千切れた。千切れた茎は光に驚いた蛇のように花畑の奥底に逃げて、風も無いのにさらさらと花は揺れる。まるで、目の前の獲物をどう料理しようかと相談するかのように。


 最初は手足に花が絡んだのだと思った。震えていた指がじんわりと温かいのは魔力が戻ってきたからだと。ある程度回復したら、城に戻る方法を探さねばならない。そろそろ起き上がろうかと何気なく動かした手足に、色とりどりの花が咲いている光景はヒースを戦慄させた。


「……神域の花は何度散っても大地を覆って咲き続ける。ここで死ねば花が僕らを喰らうだろう。そうやってこの神域は歴代の神の器を喰らって咲き続けてきた」


 険しい表情で花畑を見下ろすアルファルドの横顔には苦悶が浮かぶ。

 森は、植物は、君の味方ではなかったのか? 問いはヒースの喉の奥に張り付いて、声として飛び出る前に辛うじて留まった。牙を生やした花が一斉に襲いかかってくるグロテスクな想像をして、馬鹿馬鹿しいと首を振る。


「僕らって……まさか僕も? 身体中に花が咲いちゃうの!?」


 重い空気を払拭したくて、ヒースは戯けた調子で話を振るが、アルファルドは黙って頷いた。冗談を言っているようには見えない。「マジかよ」と呟いたヒースの声は震えていた。


 あのまま気付かずに居たら、宿り木のように少しずつ締め上げられて養分にされたのだろうか。美しい神の庭は今や、禍々しい魔界に思えた。


「どうして……今更太陽神クリアネルの器なんて必要ないだろう!? それとも、お前の手足になるのなら誰でもいいっていうのか? 散々振り回して、また僕を見捨てるのか!? 答えろ月神セシェル!!」


 アルファルドの憤りを嘲笑うかのように極光のカーテンが揺れる。花の囁きが大きくなり、極彩色の海原は大きく波打つ。ざあざあと続く花の大合唱に、アルファルドは耳を塞いで踞ってしまった。


 改めて周りを見渡せば、地平線まで続いていた花畑に銀色の縁が見える。炎に焼き尽くされた銀の樹々が、いつの間にか花畑を囲うようにぐるりと取り巻いていた。

 ――森が近付いて来てる?

 気付いた途端、ヒースの白薔薇が警告するように熱を発した。ここに居てはいけない。追い付かれてはいけない。本能的にそう思った。


「今度は何だっていうんだ……? ね、ねぇ、アル! あの銀の樹、なんだか嫌な感じがするんだけど、少しずつ近付いて来てない?」


「や……めろ。やめろやめろ! 番は僕、だ」


 声を掛けたが、アルファルドは頭を抱えたままぶつぶつと呟き、時折何かを否定するようにかぶりを振った。

 花はざざざと揺れて、その美しい面を森の王に向ける。耳を塞いで震える彼を見つめながら、声無き声で唆す。


月女神ルーネに……のは、僕……っ……は渡さ、ない! 誰にも、渡さない!!」


「アル、大丈夫かい?」


 再度ヒースが声を掛けると、アルファルドはゆっくりと顔を上げる。満月に似た金色の眼が、今ようやくヒースの存在を認識したかのように、すうっと細められた。

 アルファルドの周りでぱちぱちと火花が爆ぜる。御印みしるしから流血するように赤金の光が勢いよく噴き出し、左腕から身体に飛び散った。


「お前が、いるから……! お前のせいで!」


 金継ぎのようにアルファルドの身体に染み付く光は、今にも崩壊しそうな心身を辛うじて繋ぎ止めていた。狂気に見開かれた眼は、遠い過去の炎を映して昏い赤が混じる。

 目の前で狼狽えるヒースの姿に、別の誰かが重なったのだろう。アルファルドは神経質に首を掻き毟りながら苦しげに呻いた。


「……セイリーズ!!」


 陽光を集めて紡いだ金の髪に、海よりも深い青の瞳。黄金比で造られた太陽神の彫像の如き美貌。最も美しき神の末裔。ヒースの姿に美貌の悪魔の面影を見た時、ぷつりと。理性が切れる音が聞こえた気がした。


 黒くひしゃげた爪が首の皮膚を抉り、白いシャツに血が滲む。金色の光に覆われた身体は大きく膨張し、体積に耐えられずにシャツが裂ける。悲鳴のような雄叫びを上げながら悶え苦しむその影は、もはや人の形を成してはいなかった。


 強い獣臭を覆い隠すように草花や香木の燃える香りが漂い、アルファルドの足元から生気を吸い取られた花が萎れ始める。濃い魔力を帯びた空気がヒースの傷だらけの肌をジリジリと焼き、膨れ上がる赤金色の光が星を散らして爆ぜた。


 オオオオオオォォォ……


 それは、長く、物哀しい遠吠えだった。

 ――恋しい。淋しい。逢いたい。

 獣の言葉は分からないが、ヒースの耳には確かにそう聞こえた。無意識に頬を拭う指にはしずくが絡み、傷口に滲みて初めて自分が涙を零していたことを知る。月に焦がれる哀しき呼び声に、太陽神の魂が震えていた。


 オオオオオオォォォ……


 応える者の居ない呼び声が響く。視界を奪った赤金の光が収束した後には、炎熱による濃霧が発生していた。吸い込む空気は湿気と魔力を含んで重く、呼吸をする度に肺が溺れる。まるで水中に居るかのように息苦しい。


 ヒースは腰に差した短剣のつかを握りながら、ゆっくりと後退した。霧の中に見える影は、長身のヒースが見上げる程に大きく、頭の上にピンと立った二つの耳がある。およそヒースの知るアルファルドの姿ではなかった。


 音を立てないように、これ以上刺激しないように。

 少しずつ距離を取る踵に、何か硬いものが当たった。足元を確認すると、中程から剣身が砕けたヒースの長剣が地面に突き刺さっていた。ヒースは霧の中心を見据えながら、素早くしゃがんで拾う。心許ないが、無いよりかはマシである。


 霧の中に金色の星が二つ。巨大な獣の影は身を屈めて、箱庭の中の矮小な人間を覗き込む。低く恨めしい唸り声を囃すように花は揺れて、嘆きの王狼を狂気に誘う。


『るーね……るーね……ああ、るーね。もうすぐ、あえる』


 ふらふらと頭を振りながら、影はヒースに近付く。一歩踏み出す度にズンと地鳴りが響いて花畑が揺れた。後退るヒースは、背後に気配を感じて剣を構えて振り返る。

 しかしそこに在ったのは、先程まで遠い地平線に在った銀の樹だった。音も無く忍び寄る樹々に退路を塞がれたようだ。


『ここで、われらはもりにかえる。ようやく、ひとつになれるのだ』


 ヒースの頭に響く声は、老若いくつもの声が重なって、ひとつの意思の下に言葉を成していた。森に還った月神の器は、月神の残滓に呑み込まれ、この森に漂い続けている。やがて来る、月女神の器を待ち望んで。


「それが、月神の目的か……。月神はセラが生きようが死のうがどちらでも良かったんだ。この森は神の器を喰らう。セラが死んだら、その身体ごとこの森に取り込めばいいって、そういうことかよ……! 君は、それでいいのかアルファルド!」


 霧の中から金色の被毛に覆われた鼻先が覗く。半人半獣。獣頭の神は獲物を視界に収めて牙を剥いた。


『もりをすてたおまえに、いばしょはない。るーねのつがいはわれらだけ。このもりに、おまえはいらない!!』


 神獣の咆哮に竦みそうな足を動かして、ヒースは真横に飛び退いた。瞬間、今までヒースが居た場所に巨大な亀裂が走り、銀の根が槍のように天を突いた。月神は、アルファルド程甘くは無い。あの場に留まったら串刺しにされていただろう。


 ヒースが体勢を立て直すのを待たず、月神は巨体とは思えない速度で真正面から突っ込んで来る。ずらりと並んだ牙が肉迫して、ヒースは舌打ちしながら長剣を食わせた。

 ガチンと牙が噛み合い、鋼の剣身はいとも容易く噛み砕かれる。月神は玩具を振り回すように頭を振って残骸を吐き捨てた。


「ははっ……鋼を噛み砕くなんて。嘘だろ?」


 ヒースの動揺に、舌舐めずりする月神の口元が笑ったように見えた。

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