59
私はよろけながら洗面所に向かった。床に右足を着く度に重力に皮膚を引かれて立ち止まる。ネグリジェが皮膚に擦れるだけで身体がバラバラになりそうな痛みが走った。
壁伝いに歩き、なんとか洗面所に到達したが、数歩歩いただけで脂汗が頬を伝って顎の先から滴り落ちる。鏡に映る顔は相変わらず蒼白で、少し痩せたのか袖から覗く腕は血管が目立つ。
こんな腕で弓を引けるだろうか? もちろんそんな事態に陥らないことが一番だけど。
凍る寸前ぐらいの冷たい水で口を濯いで顔を洗う。両頬をピシャリと叩けば気が引き締まった。血色を取り戻した私の顔を、鏡に映る父さんが悲しげに見つめていた。
「君たちを、救うためだ。あのまま眠り続けていたら、君もアルファルド君も命を落としただろう。君を奪われるくらいならそれでも良いと、彼は思っていたのかもしれないが……私もヒース君も、君たちを失いたくなかった」
眠っている間も、私に話しかけるアルの声が聞こえていた。優しく狂おしく私を呼ぶ声は、いつからか『目を覚まして』と言わなくなった。
奪われるくらいなら一緒に死んでも良いとまで思うのなら、その前にどうして私と生きる道を模索してくれなかったのだろう? 私が、アスタヘルじゃないから?
「……本当は、少し前から気付いていたんだ。気付いていて知らないフリをしていた。アルが、私の中にアスタヘルの面影を探しているって。必要としているのは私じゃないって」
鏡に映る長い黒髪の女は、アスタヘルによく似た別人。
御印の記憶を夢に見て、アスタヘルの抱える感情を我が事のように感じることはあっても、まるで活動写真を見ているかのように、どこか遠い世界のことのように思えた。いくら姿を似せても、私はアスタヘルにはなれなかった。
この器に宿るのは今もセリアルカの心だけ。
『愛しているんだアスタヘル……君が恋しくて恋しくて堪らない。もう一度君に巡り合うために千年を越えたんだ』
彼の言葉に涙したのも、セリアルカの心だった。
「認めたくなかったんだ。だって、記憶の中でいつまでも美しいままのアスタヘルに、勝てる筈がないのだから。アルにとって私はアスタヘルとの再会を阻む邪魔者。アルが恋したのは私じゃなくて、アスタヘルだと理解してしまったら、アルの牙を受け入れられなかった。だって、それは私を求めてくれたわけじゃないから」
「セラ……」
ぽたぽたと温い雫が頬を伝って落ちる。泣いてるように見えたのだろうか、父さんが優しく抱きしめてくれた。
「それは、違うよ。違うんだ。――幼い頃から君だけを見つめていたアルファルド君の思いは、彼だけのものだよ。それだけは、信じてあげて欲しい」
父さんは自身に言い聞かせるように断言する。どこか必死に感じられるそれは、誰に対する憐れみなのだろうか。
「セラがアスタヘルになれないように、アルファルド君もルシオンにはなれない。死者の思いを汲み、無念を晴らすことは尊い行いだ。けれど、今を生きる君たちがそれに固執してはいけない。彼らの物語はもう終わったのだから。彼らの記憶を受け取ったら、彼らの思いとは訣別しなくてはならない。それは、彼らだけのものだから」
森の外で死んだルシオンとアスタヘルは、この森に帰りたかったのかもしれない。千年の時を越えて森に戻ってきた二人の記憶は、私とアルファルドが受け取った。
引き裂かれ傷付いた二人の思いを、この森に解放して、ようやく彼らの物語は終わりを迎えるのだろう。
「同じ運命を繰り返すだけなら、育んだ思いを手放してまで新しい器に生まれ変わる意味は無いんだ。君たちは、君たちの思いで物語を紡ぐ頃合いだ。
二人の物語に、最後の一ページを書き加えて閉じよう。悲劇の後には、子孫の千年の幸福があったと。あなた方が繋いだ命と記憶は、私たちが受け取ったと。
そこからようやく私たち自身の物語が始まる。そして、それはいつか私たちの子孫へと受け継がれるのだ。
「思いはここに残して、記憶を受け継ぐ……」
愛も憎しみも怒りも悲しみも、思いの全てはその人だけのもの。アルを思う私の思いも、私だけのものだ。アスタヘルにも、これより先に生まれる
全部納得して、赦したわけじゃない。それでも、気持ちに折り合いをつけて、私たちは未来に進まなければならない。
「……私、神域に行ってくる。必ず二人を連れ戻すから!」
ぎゅっと抱きしめ返せば、父さんは困ったように吐息だけでふふっと笑った。
「私の弓を持っていきなさい。
「うん。月神には一度ご挨拶しないとね!」
私がにっこり笑うと、父さんは一拍遅れて「そ、そうだね……」と蚊の鳴くような声で応えた。
過ぎた加護を与えたり奪ったり、ルシオンの悪夢で苛んだり、散々アルを虐めておいて
私は父さんから弓矢と治療魔法の描かれた包帯を受け取って、足を引きずりながら部屋を出た。心配そうについて来たハティが私の腰に纏わりついて邪魔をする。
ハティは私の正面に回り込むと、上半身を低くして尻尾を振りながら遊びに誘った。
「こら! 後で遊んであげるから、大人しく父さんの所へ……」
撫でようと伸ばした私の手を避けて、ハティは私の背中側に回ると突き飛ばす勢いで頭突きした。
ハティに攻撃されるなんて……ショックでよろけた私を、ハティは身を屈めて背中に乗せる。そのままスクッと立ち上がって歩き始めたので、私は慌てて背中にしがみついた。
「ハティ!? 大丈夫? 重くない?」
わふっ! とひと声吠えると、ハティは私を乗せて軽やかに走り出す。魔狼の背に乗り城を飛び出した途端、目の前に青々とした新緑の道が敷かれた。
あからさまな誘いに、警戒しながら道の先を見れば、若い杉の木の下で銀色の狼がこちらをじっと見つめている。
今は私が月女神。銀色の狼は、私の他に父さんしか存在しない。父さんじゃないとすれば、あれは……?
目が合うと、銀色の狼はくるりと尾を向けてこちらを振り返る。
『――知らない狼を追いかけてはいけないよ』
アルはそう言ったが、それは神隠しに遭わないためのルール。誘いに乗ってあの狼を追いかければ、神域に辿り着けるかもしれない。
「神域へ案内してくれるの?」
私の問いに銀色の狼は答えず走り出した。今度は振り返らず、道の先を目指して。
「ハティ! あの狼を追いかけて!」
赤いナナカマドの道の先に、銀緑の光が糸のように尾を引いて行先を指し示す。この先で、アルとヒースが私を待っている。
どこか懐かしい匂いがする森を、私を乗せた真っ白な狼が駆け抜けた。
その日、オクシタニアの森に真っ白な狼に乗った月女神の伝説が生まれてしまうのだが、私がそれを知るのはずっと後のことである。
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