58
暗雲に烟る紅月を貫く城の影。憧憬の念で何度も仰ぎ見た特徴的な尖塔、その配置。大部分が破壊されていても見間違える筈が無い。あれは、聖王セイリーズが座す水晶王宮だ。
その名の通り、群晶のように並び建つ白亜の尖塔も、今は黒炎が染み入るように絡み付いて、ひとつ、またひとつと闇の中に沈んでいく。城に併設されていた光の神殿は、まるで上から踏みつけられたかのように、念入りに破壊し尽くされていた。
――城が落ちた。戦神と太陽神、そして月神と月女神が力を合わせても王国の滅亡を止めることはできなかった。
あの御方は、ご無事なのだろうか? 否、自分だけ助かろうとする御方ではない。この国、城と共に果てたのだろう。
胸の芯が冷えていく感覚に震えるのに、その内側は風が凪いだ凍土のよう。凍りついたように感覚が鈍い。次々に崩壊する城の尖塔を見ても、王の死を覚っても、アスタヘルの目に涙はなかった。
その時にはもうアスタヘルの身体は魔に侵食されて、感情が希薄になっていたのかもしれない。
王宮を取り巻く白薔薇の花弁の如き街並みは炎の海。逃げ惑う市井の人々を異形の魔物が追い回す地獄の光景。美しかった白い街並みは血と炎の赤に侵され、屍の山から死臭が漂う。
アスタヘルは剣を手に街を彷徨う。呼吸は浅く、喉奥に貼りついた血の塊が不快だった。立ちこめる死臭と硫黄の臭いに鼻が利かず、匂いが全く分からない。身体は鉛のように重く、一歩踏み出す度に足元に黒い血が滴る。
どれ程歩いただろうか?
視界は霞み、時間の感覚さえ曖昧だった。ルシオンに会いたい。その思いで歩き続け、ついにその人を見つける。
逃げ惑う住民たちを庇い魔物と応戦する彼の姿に、愛しい思いが溢れた。人間を憎み、恨んでいた魔獣は慈しむ心を取り戻し、今や英雄――人間の守護者となったのだ、と。
ああ、良かった。きっと、彼はもう……大丈夫だ。
声を掛けようと近寄った途端、アスタヘルは自分の意思に反して彼に向かって剣を振り被っていた。
振り向いた彼の顔に浮かんだ絶望に、頭の中にけたたましい笑い声が響く。アスタヘルを操った何者かは、望外の御馳走に舌鼓を打った。
かつて世界を滅びの縁に追いつめた月神の悲哀は、格別の味だったのだろう。
ここは王都リュミエル。千年前に滅びたクレアノール王国の都。
大災厄――クレアノール王国が滅亡したとされるその日――ルシオンとアスタヘルは滅びの炎の最中に居た。
***
誰から聞いたのか定かじゃないけれど、それは刺青を入れるような痛みだと聞いたことがある。
熱く焼けたナイフで何度も何度も同じ場所を切りつけ、グリグリと少しずつ傷口を広げていくような激痛。刺青を入れたことがないので想像の域を出ないけれど、言われてみればたしかに、こんな感じかもしれない。
「いっっっ……たぁああい!!!」
今まで見ていた夢の余韻が吹き飛ぶ痛みに、私は悲鳴を上げて飛び起きた。私はまた何日も眠っていたのだろうか。急に身体を動かした反動は重く、遅れてきた痛みがじわじわと身体を這い回る。
ここは何処? 今は
まずはベッドから出ようと足を動かした瞬間、まとまりかけていた思考が激痛で吹き飛ぶ。苦悶しながら顔を上げれば、目の前で父さんとハティが目を丸くしている。
「セラ……?」
「何なのこれ!? 何でこんなに痛いの? いったい何を……」
私は布団を捲って絶句する。今まで生きてきた中で一度も着たことが無いだろう、ヒラヒラした高級そうなネグリジェにも驚いた。だが、問題はその下で銀緑に輝く紋様である。
「
固まっている父さんの代わりに答えるように、ハティがガバッと飛び付いて来た。慰めてくれるのか、ふんふん鼻を鳴らしながら私の頬や顎を舐める。
しばらく見ない間にひと回り身体が大きくなったハティは、今や
「く、くすぐったい! わかった、わかったから! いっ痛ッ! 苦し……お腹を踏むのはやめなさい!」
私は興奮するハティをなんとか引き剥がし、父さんの手を借りて起き上がった。ベッドから降りようと絨毯の上に足を着いた途端、右足に激痛が走って息を呑む。倒れ込みそうになるのを、ハティが体を滑り込ませて支えてくれた。
「どういう、こと? 私が、寝ている間に、何があったの?」
痛みに肺が縮こまる。満足に呼吸できず、息も絶え絶えに疑問を投げかけたが、父さんは厳しい表情のまま首を横に振った。……嫌な予感がする。
「セラ。今はのんびり話している時間は無い。しばらく痛みは続くと思うが、今すぐ神域に向かってほしい」
「神域に?」
この森に来てからずっと、神隠しされないように月神の招待を拒んできたのに、今度は神域に行けとは? 私は父さんの真意が分からず、ただ鸚鵡返しに呟いた。
「君に御印を譲るために、ヒース君に時間を稼いでもらっているんだ」
身体から血の気が引いていく。抗議の声は凍り付いて、震える唇はぱくぱくと空気を喰む。
時間を稼ぐ? 一体何から? なんて考えなくても分かる。眠る私の側で愛を乞うていた彼が居ない。何らかの方法でアルを私から引き離したようだが、あのアルが眠ったままの私を置いて出るなんて余程の事をしでかしたに違いない。ヒースが関わっているとしたら、その憎しみは真っ直ぐにヒースに向かうだろう。
「ヒース君がいくら優秀な剣士であっても、相手は
魔力があると判明しても、ヒースは魔法が使えない。千年前の英雄の記憶を取り戻したアルが相手では、圧倒的に不利だ。私はアルの良心を信じているし、ヒースが一方的にやられるわけないって信じている。でも、暗殺を生業にしていたルシオンは、人間を殺すことに躊躇しない。
「ヒース……どうして、そんな無茶を!」
そう口にしながらも、私はその理由を知っている。
ヒースはあの夜に宣言した通り、私のために剣を抜いてくれたのだ。
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