57
風が止み、耳が痛い程の静寂が森を満たしていた。足元で丸くなって眠っていたハティを起こすと、エリオットは杖を手にサロンを出た。
廊下のあちらこちらで使用人たちが眠っている。行き倒れのように無造作に人が転がっている光景は異様で、本当に眠っているだけなのだろうかと不安を誘う。ハティもいつもと違う雰囲気を感じているのか、エリオットに甘えるようにぴたりと寄り添っていた。
午後の陽が降り注ぐ応接室のソファに、レグルスとミラが寄り添って眠っているのを横目に見つつ、ひとりと一匹は城の大階段を上る。ここに来てから毎日のように通ったセリアルカの部屋の前まで来ると、エリオットは杖に嵌め込んだ魔石から銀の長弓を取り出した。
ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。鍵は掛かっておらず、ギイィと鈍い音を立てて開いた。静か過ぎる城内では、多少の物音も大きく響く。
エリオットは内心心臓が飛び出そうな思いをしながら、そわそわと落ち着かないハティの頭を撫でた。モフモフは荒んだ心を救う。愛娘の口癖である。
部屋の中は扉のすぐ内側まで、大人の腕ぐらいの太さの荊が蔓延り侵入者を拒んでいる。荊の結界の隙間から中を覗けば、アルファルドの使い魔だろうか、絨毯の上に四匹の魔狼が転がっている。部屋の奥には、カーテンで閉め切られたベッドが見えた。
「下がっていなさい。ハティ」
呼ばれたハティは耳をピンと立ててエリオットの顔を見上げる。『後ろに退がれ』と手で合図すると素直に従った。
言葉が通じているのか定かではないが、何となく意思の疎通はできている気がする。この森の王狼よりは話が通じそうだと、エリオットは苦笑を溢した。
エリオットは銀の長弓を竪琴を弾くように肩に構え、矢をつがえずに弓の弦を弾いた。静まり返った城にびいんと鳴弦が響く。静寂に溶けていく耳鳴りのような振動音に、眠りに弛緩した空気が引き締まった。
大きく深呼吸をして、今度は荊の結界に向かって撃つように弓を構えた。胸を大きく開いて弦を引く。右脚の
弓に充分に魔力が行き渡ったところで再び弦を弾くと、音の矢が荊の結界を切り裂いた。荊はばたばたと崩れ落ち、闇に澱んだ部屋の中に陽の光が差す。荊の残骸は陽光を浴びた途端、道端で干からびるミミズのように縮んで、ボロボロと風化していく。
結界が壊されたことはすぐにアルファルドの知ることとなるだろう。ここからは時間との勝負である。
エリオットが弓を構えたまま部屋に入ろうとしたその時、ベッドの側の暗がりから低い唸り声が響いた。
『ちかづくな。だれもるーねに、ふれる、いけない』
膨れ上がる影の中に真紅の双眸が開く。ゆらゆらと陽炎のように黒い被毛を逆立てて、アルファルドの相棒オリオンは立ち塞がった。
そう簡単にはいくまいと思っていたが、オリオンに月女神の子守唄が効かなかったことは、少なからずエリオットを動揺させた。
「通してくれオリオン! 早くしないと、その子が死んでしまう。番が死んだら、君の主人だって悲しむだろう?」
『きょうだいは、のぞむ、ない。ちかづくやつ、ころす!』
轟と響く竜の如き咆哮にビリビリと城が揺れた。凄まじい威圧に足が竦んで震え上がる。弱い動物だったら、今のひと声だけで気絶しただろう。森の王の兄弟と呼ぶに相応しき風格である。
オリオンは千年前にルシオンと契約を結んだ魔狼シリウスの子孫である。セシル家の子らを兄弟と呼び、契約の強制力に等しい強い愛情と絆で結ばれている。群れの頭を尊び、兄弟を裏切ることは決して無い。
アルファルドが殺せと命じたならば、忠実に従うだろう。
魔狼と真正面から戦うにはエリオットの足では分が悪い。それでもひと度月女神が弓を射れば、いかなる獣も仕留めてしまうとエリオットは確信している。
銀月と狩猟の女神ルーネの魔弓は獣に絶大な効果を発揮する。オリオンでさえも例外ではない。だがそれではあまりにもオリオンが報われない。狩ることが目的ではないのだから。
ふと血の匂いを察知して、エリオットは目を凝らす。オリオンの漆黒の被毛をよく見れば、牙と前脚から黒い血が滴り落ちていた。
眠りの魔法に抗うために、自分の前脚に噛み付いたのか。そうまでして主人に忠実であろうとするのか。オリオンの健気な姿に、エリオットの胸に罪悪感が募った。
「オリオン……すまない」
事は一刻を争う。断腸の思いで弓に矢をつがえた時、エリオットの足元から白い毛玉が飛び出した。転がるボールのように飛び出たハティは、勇敢にもオリオンに飛び付いた。
しかし、力も戦闘経験もオリオンの方が上である。セリアルカを取り戻したい一心で挑んだものの、数分と保たずにハティは首を噛まれて床にねじ伏せられた。
だが、その数分があればエリオットには充分だった。
オリオンがハティに気を取られている間に、エリオットはオリオンの背後に近付き、再度眠りの魔法を構築する。オリオンは魔法の気配に慌ててハティの首から牙を離したが、既に魔法は完成していた。
自由になったハティがしつこくオリオンに組み付き、床に押し付けて動きを封じる。牙を剥き激しく抵抗するオリオンの頭にそっと手を置くと、エリオットは悲しげに微笑んだ。
「おやすみオリオン。君は充分に義理を果たした。悪いのは全部私だから、私を恨みなさい。君の大事な兄弟は必ず取り戻すよ。だから今は安心しておやすみ」
悔しげに唸っていたオリオンだったが、月女神に触れられ、直接体に魔力を流されては抵抗できなかった。次第に瞼が下がって足元から崩れるようにころんと横になる。のしかかっていたハティが退いても、暴れ出す気配は無かった。
オリオンが眠ったのを確認して、ホッと一息ついたエリオットの背中に、ハティがすりすりと身体を擦り付けてくる。
「ハティ! 怪我は……無さそうだね。良かった」
ハティの首には魔物の黒い血がベッタリ付いていたが、ハティ自身の血ではないようだ。もっふりとした首周りの毛が鎧代わりとなったらしい。
待てよ。今背中に擦り付いていなかったか……? 上着のクリーニング代をざっと計算して真っ青になるエリオットの前で、ハティはピンク色の舌を垂らして目を細める。笑っているようだ。
「染み抜きは後でレグルスに相談するか……。――さて、最後の大仕事が待っている。もう少し手伝ってくれるかい?」
わふっ! と一声吠えて、ハティはぶんぶん尻尾を振った。
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