56『真夜中の太陽』
真冬の青い月の下、黒いヴェールを被る黒衣の花婿は、胸に手を当てて優雅に一礼した。衣摺れと共に甘い薔薇が香る。
「直接言葉を交わすのは初めてかな? 初めまして。我が名は、セイリーズ・アルマ・ディアマンテ・クレアノール。今代の太陽と光の神だ。君の活躍はエリオスから聞いているよ。金月と森の神、天狼のルシオン」
子供に絵本を読み聞かせるのが似合いそうな、落ち着いた優しげな声だった。声に含まれた毒にさえ気付かなければ、きっと夢も見ずに二度と覚めない眠りにつくことだろう。
「……アスタヘルは何処だ」
俺はマントの下でベルトに差した刀の
強い風が吹き抜けて、セイリーズのヴェールを剥ぎ取る。はらはらと舞い落ちる白薔薇の花弁は、主人の頬を撫でて夜に沈む。ゆっくりと開く白い瞼の下、サファイアの如き青が妖しく煌めいた。
「遠い所に居るよ。戦場からもクレアノールからも……君からも遠い、安全な場所にね」
「アスタヘルは俺の
「本当にそうだろうか? アスタヘルにとって、君こそ最大にして最悪の脅威ではないのか?」
夜闇の中でも、その瞳の青を判別できた。ぼんやりと淡い光を帯びるその瞳は、光の届かない深海で獲物を誘引する魚のよう。アスタヘルは、その光に囚われてしまったのか。
セイリーズは、わざとらしく首を傾げて困ったように笑う。震えながら威嚇する仔犬が可愛くて堪らないといった笑顔で呪詛を吐いた。
「……残念だが、君の隣に居たら十年以内にアスタヘルは死ぬよ」
まるで経典の一節を諳んじるように穏やかに告げられた予言は、しかして雷の一撃のように深くこの身を穿った。
「もう一度……言ってみろ! この詐欺師が!!」
俺の怒りに呼応して、白薔薇が高く枝葉を伸ばす。重たそうに大輪の花を揺らしながら、中庭を鉄柵のように囲った。
だがセイリーズに怯んだ様子はなく、眉尻を下げて悲しげに首を振る。その青い眼は今ここに居る俺の身体を素通りして、今ではないいつかを視ている。
「予言者は嘘を吐かない。嘘を口にすれば眼が濁るからね。――そして、一度口にした予言は取り消すことができない」
くすりと密やかに溢れた美しい笑み。馥郁たる悪の華。その邪悪さに、身体を巡る血が震えた。
これが。これが、聖王だと? 正気を疑う。
「お前……お前だけは殺す!!」
言うが早いか、俺は一息に間合いを詰めて刀を振り抜いた。刀はセイリーズの首を捉えたように見えたが、全く手応えが無い。初撃から間髪入れず、今度は胸を貫いたが、やはり刀は空を斬った。
これは、幻影か?
確かめようと
或いは、こうなることを予知していたのか。あの恐ろしい青の眼は本物の予言者の眼だと云うのか。だが、それを認めることは、セイリーズの予言を認める事になる。俺の存在がアスタヘルの生命を脅かすなんて、絶対に認められない。
「出て来い! その首叩き斬ってやる!」
白薔薇は未だ鮮血に染まることなく、ゆらゆらと月光の中を泳ぐ。夜風にくすくすと嘲笑う声が揺らめいて、相手の位置が分からない。視覚嗅覚に続き、聴覚にまで異常をきたしているようだ。
予言で動揺を誘い、幻術で惑わし五感を狂わすなど、こんなにも禍々しい光を未だ嘗て見たことが無い。これではまるで魔族のやり口じゃないか。魔族と戦うものは、人ではいられなくなるのだろうか。名無しの王子と対峙した時でも、こんな焦燥感はなかった。
幻影を斬り捨てる毎に光が視界を奪い、眼の奥の脳に刺さるように傷んだ。暴力的なまでに濃い薔薇の香りが弾けて視界が歪む。ふらつく身体を支えようと、刀を地面に刺して攻撃の手を休めたその時、美しき悪魔は囁いた。
「――ルシオン。君はその手で愛しい人を殺すだろう」
時が、心臓が、止まった気がした。
怒りで血が沸騰して肺が空気を拒む。痛む程に熱を帯びる月光花の
「黙れ!! お前の眼は腐ってる! そんな未来は有り得ない!」
俺がいくら否定しても、俺の中の
目の前が赤く染まり、ばきばきと大木が折れるような音を立てて身体が軋む。目を瞑り耳を塞いでも嘲笑の声が頭の中で響いた。鉤爪が伸び、指が縮んで赤金色の被毛を纏う。喉から漏れる呻きはいつの間にか獣の唸り声となり、ついに人の言葉を失った。
赤い燐光を纏う忘我の獣は、視界をちらつく白い光を片っ端から引き裂いたが、狂気に誘う笑い声は消えない。
怒りの咆哮を上げながら幻影の左腕に齧り付けば、口内を血の味が満たした。ついに当たりを引き当てたのか、よく知った匂いにほんの僅かに理性が戻る。
口内でみしみしと骨が軋む。二度とふざけた予言を吐けないように、御印と喉笛を喰い千切ってやろうか。
ノコギリのような牙がセイリーズの腕深くに食い込み、骨にまで達した。相当な痛みの筈だが、至近距離で見た涼しげな美貌は少しも歪むことなく、冷え冷えとした視線を寄越す。
「愛に狂う憐れな魔獣よ。君たちが運命に打ち勝つことを祈っているよ」
憐れみに満ちた祈りを呟き、セイリーズは空いた方の腕で俺が地面に刺したままの刀を握る。
視界の隅を黒い流星が瞬き、脇腹にひやりと冷たい感触を感じた。ややあって、それは灼けつくような痛みになって内臓を抉る。
体勢を立て直そうとセイリーズの左腕から牙を離し、身を捩って腹を見れば、妖魔刀天狼が金狼の腹に深々と喰らい付いていた。
「さようなら、ルシオン。……二度と私の前に現れないでくれ」
虚空に無数の光の剣が現れ、痛みにのたうち回る金狼を大地に縫いとめる。真夜中の太陽が夜を焦がすように燃え盛り、白い炎が俺の身体を呑み込んだ。
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