55『古塔の亡霊』
『恥ずかしいけれど、私は文字の読み書きができないの。だから代わりに女中のルビーナに読んでもらったのだけど、途中から『これはルシオンが帰ってきた時に直接聞きなさい!』って怒られてしまったよ。貴方、一体何を書いたの?』
どうだったかな? よく覚えていないけど、君に会いたい。抱き締めたいってことを長々と書いたんじゃないかな。読まれて困るようなことは何も書いてない筈だけど、ルビーナには災難だったね。
『貴方がくれた花をポプリにしたの。すごく良い香りがしてよく眠れるから、枕元に置いているのよ。この手紙と一緒に貴方にもお裾分けするね』
どんな花も、君のその甘い匂いには敵わないよ。君の手紙から香る匂いに俺がどれほど恋焦がれているか分かる? 今度手紙をくれる時は、送る前に一晩抱いて眠ってくれ。それか、何か君の持ち物を貸してくれると嬉しい。
『最近王都周辺にも魔物が出没するようになって、物資の配達が滞っているの。貴方からの手紙も届くまでに半年もかかって、貴方の身に何かあったのかとすごく心配したわ。私はいつでも貴方の無事を祈ってる。どうか自分の命を大事にして。待っている人が居ることを忘れないで』
ああ、分かってる。分かってるよ。
君の分まで戦うと約束したんだ。三つ目の首を獲って、契約の首輪が取れてもまだ戦場に留まっている。君の代わりに、この戦いの終わりまで見届けて帰るよ。
だから、帰ったら優しく労ってほしい。君が抱き締めてくれたら、それだけで俺は報われるから。
……何度もそう書いた。俺を待っていてくれると、君がそう書いたんじゃないか。なのに何故?
何度読み返してもそれ以上の情報は無い。それでも手掛かりはこの手紙の束にしかなくて。ぐしゃりと握り潰した手紙を惨めな思いで広げては、また最初から読み返す。
三年ぶりに帰った家は、もぬけの殻だった。
迎えてくれる筈の愛しい
杢目の床には家具の跡が残り、薄っすらと埃が積もっている。アスタヘルがこの家を出てから、かなりの日数が経っているらしい。
最後に受け取った手紙の日付は三ヶ月前だった。返事をくれたのは、本当にアスタヘルだったのだろうか? 読み書きができないことにして、ルビーナが返事をしていたんじゃないのか? 今となっては何もかもが疑わしかった。
「アーシャ……ねぇ、アーシャ。君はどこに……?」
真冬の月が部屋の白壁に青い影を滲ませる。俺は壁のシミにでもなった気分で、蹲ったまま動けないでいる。焦がれて止まないその
もはや座っている気力も無くて、仰向けに転がり手足を投げ出す。天井まで白いのかと、乾いた笑いが溢れた。
この部屋でアスタヘルと共に過ごした年月より、遠征に出ていた年月の方が長いに違いない。それでも、ここで過ごした僅かな時間は、俺にとって生命を賭けて守る価値のある何よりも尊い日々だった。
あの幸せな日々を取り戻すためなら、何だってできた。疑問を持たず、思考を放棄し、心を殺してひたすらに魔族を屠った。ただ、アスタヘルの元に帰りたい一心だった。
騎士千人の一生分ぐらいの働きをしたのだ。シュセイルのド田舎から出てきた暗殺者崩れが、今では英雄扱いなんて笑えるだろう?
全部、君のためだよ。ねぇ、アーシャ。
あの幸福な日々は、戦場の狂気が見せた夢だったのか? 最初から全部嘘だったのか? 俺を愛しているフリをしたの? どうして?
「……アーシャ」
どうして逃げた? 君はやはり俺を憎んでいたのか?
便箋に顔を埋めても、もう紙とインクの匂いしかしない。
「俺の
何処へ行こうと、君は俺から逃げられないのに。――そうだ。絶対に逃さない。たとえ君が殺したいほど俺を憎んでいたとしても。君はもう、俺の
床の一部になりかけていた上体を起こして窓辺まで這う。月を背に庇い、両手を広げて逢瀬を阻む城の影を睨んだ。
この家から目視できない王城の北の塔には、惨殺された先代王の亡霊が出るという噂があった。セイリーズ王がその塔に足繁く通うのは、亡き父王を弔うためだと。
だが、獣人の嗅覚はあの男が纏う濃厚な薔薇の香りの中に、女の匂いを察知していた。
王が寵姫を囲っていようが、統治者として優秀ならば人間性なんてどうでもいい。あいつの素行になんて興味は無いし、このクレアノール王国がどうなろうと俺には関係無い。
だが、セイリーズが大事に仕舞い込んでいるその女が、俺が会いたいその女性だったら? ……俺は冷静で居られる自信が無い。
アスタヘルは否定していたけれど、二人が特別な関係であったことは明らかだ。
セイリーズのことを話すアスタヘルは、初恋の苦さに戸惑う乙女のような顔をする。俺はその顔を見る度に胸が締め付けられて、その唇からあの男の名が溢れるのが憎らしくて。あの男の前でも同じ顔をするのかと思うと、胃が灼けついて腹から腐り落ちるような嫉妬に苛まれた。
だからだろうか? アスタヘルの手紙の中に、セイリーズの話が一度も無かったことに気付いてしまったのは。今までのアスタヘルを思えば不自然に思えた。
――真実を確かめる必要がある。
***
月光が青白く照らす王城の中庭に、ゆらゆらと夢見るように白薔薇が揺蕩う。ティーカップのようにころんとした形の花は
月落ちる森の神話を知った時から、
母神ユリアネスに似て生まれた最も美しき神、クリアネル。いつでも正しく公平な正義の守護神。誰からも愛され必要とされる太陽の化身。
生まれた時から闇の中で生きることを強いられ、見捨てられる者たちの痛みなど、永遠に知ることはないだろう。
「昏く静かに燃える愛など存在すら許さないその傲慢な光……いい加減、鬱陶しいんだよ!!」
振り向けば、月明かりを厭うように白薔薇が揺れている。波に揺られる海月の海に、灯台のように静かに佇む黒影。喪服のような黒の礼装に黒いレースのヴェールを被ったその姿は、塔に出ると云う亡霊のようだった。
「そこにアスタヘルは居ないよ」
風に煽られたヴェールから端正な口元が覗く。淡々と告げるその声音にも、白い面に浮かぶ古拙な微笑みにも、何の感情も感じられず、得体の知れない寒気が背筋を駆け抜けた。
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