49 ヒース⑤
正午の鐘が鳴ると同時に、ヒースは城を出た。出発時刻を正午にしたのは、太陽が天頂付近にある時間ならば
門を出るまでは使用人たちの視線が付いて回ったが、ヒースは元々避けられている身の上、尾行されている気配は無かった。
まずは神域に繋がる道を探さねばならない。森は
だが、今も神域に居る
ヒースは城壁を離れ、森の中の少し広い場所に出ると足を止めた。上着の内ポケットからピンクの小花柄のスカーフを取り出し、左手の
スカーフはミラに頼んでセリアルカの荷物から拝借したものである。彼女の香りを纏っていれば月神の方から寄って来るだろうとのことだったが……。
「こんなに分かりやすいとは……」
目の前には、今までに無かった細い獣道ができていた。道の両端に街灯のようにぽつぽつと赤いナナカマドの実がなっている。
セリアルカとの扱いの差に苦笑しながら、ヒースは屈伸運動して筋肉をほぐす。しっかりと準備運動を済ませると獣道の先を見据えて走り出した。
道に一歩踏み入れた途端、空気が変わったのが分かった。薄暗く色褪せた真冬の森に居た筈なのに、周囲の森の樹々は生まれ変わったかのように新緑が萌える。
どこに隠れていたのか、数多の生き物の気配をすぐ身近に感じる。遠い道の先から甘い花の香りが漂って、ヒースを森の奥へ奥へと誘った。
走ること数分。緩く曲線を描く道の先に光が見えた時、周囲から警告するような鋭い狼の咆哮が聞こえた。獣道を走るヒースの側、藪の中を何かが併走している。それまでヒースに道を示していたナナカマドの赤色が薄れて、明るい新緑の森が色を失っていく。
走りながら背後を振り返れば来た道は消えて、素知らぬ顔の樹々が雪化粧をして佇んでいた。獣道に招き入れたのがセリアルカではないと気付かれてしまったのか。足を止めれば獣道は消えて、真冬の森に置き去りにされるかもしれない。
ヒースは舌打ちして、走る速度を上げた。
ここで失敗すればこちらの意図に気付かれて、アルファルドの警戒が高まる。エリオットはヒースがやり遂げると信じて送り出してくれたのだ。何としてでも神域に辿り着かねばならない。
全速力で光に向かって走り続け、ついに森を抜けると視界が急に拓けた。ヒースが眩い光に目を眇めたその時、身体に嫌な浮遊感を感じた。
「なっ……くそ……!」
森ばかりか大地が消えて、ヒースは空中に投げ出されていた。来た道は消えて、戻ることはできない。完全に道筋から追い出されてしまった。
遥か下にオクシタニアの森が見えて、剣山のような針葉樹の森がぐんぐんと近付いて来る。
恨めしげに堕ちゆく空を見上げれば、
――あれが、神域の入り口だろうか?
今使ってしまうにはもったいないが、あの場所まで昇るにはもうこの方法しか無い。ヒースは縋る思いで空に手を伸ばした。
「力を貸してくれ……ディーン!!」
空に叫んだのは、風に愛されし空の子の名。ヒースの請願に、金の腕輪に嵌め込まれた緑の魔石は砕け散った。
極光のカーテンを揺るがして竜巻のような暴風がヒースの元に集まり、身体を空高く押し上げる。ヒースはそのまま風に乗って空の裂け目に飛び込んだ。
今度の落下は短かった。
眼下には大地を埋め尽くす花畑が広がり、その極彩色の色の洪水に眼がチカチカする。着地の衝撃を逃すためにくるりと受け身を取ると、靴底が引きちぎった花弁が空を舞った。
ヒースは足が着く地面にひとしきり感謝した後、未だバクバクと激しく脈打つ胸を抑えながら、ゆるりと立ち上がる。
湿度が高いのか、少し息苦しさを感じる。あまり魔法に詳しくないヒースでも圧を感じる程に、濃厚な魔力が体に纏わり付いていた。
――ついに神域に来てしまった。
じんと胸が痺れるような感覚に、じわじわと実感が湧いてくる。逸る心を落ち着けて、ヒースは周囲を見渡した。
極光揺れる緑の空を仰ぎ、空に伸びる針金のような銀の樹々。その裾野を埋め尽くすのは、爛漫と咲き誇る極彩色。土に還ることを忘れ、何度踏み躙ろうとも折れることなく蘇る、命無き虚ろの花。ただ在りし日の生を謳歌する忘却の庭。
時と生命の理の輪から逸脱してしまったその美しい森を、人々は“神話の森”と呼び恐れた。
そこは太陽と月が生まれた場所。
銀の月が落ちた、世界の果ての森。
月神の妄執が創り出した月女神の檻。
――そこが、太陽と月の故郷。呪いと祝福に満ちた永遠の春の森。
足元から這い上がる震えは、今しがた経験した乱暴な空の旅が原因ではない。もっと本能的な、神の御業を目にした打ちひしがれるような畏怖。
ヒースは震える指で上着の内ポケットから懐中時計を取り出すと、一時間後に鳴るようにセットする。文字盤の上蓋に刻まれた薔薇の浮彫りを撫でれば不思議と震えは収まった。元通り大事にしまい込んで、服の上からそっと叩く。
大丈夫。やれる。と自身に言い聞かせ、ヒースは抜き払った長剣を天に掲げた。身体中を熱い血潮が駆け巡り、剣の
ヒースは大きく息を吸って腹の底から絞り出すように声を張り上げた。
「天つ風と蒼き炎を纏いし戦神の子。文明と叡智の赤き炎の守護者、火神マルディアスよ! 我が剣に宿りて悪しき妄執を焼き尽くせ!!」
心臓を強く引っ張られるような衝撃の後、剣身は赤く燃え上がり、ヒースを中心に周囲一帯に猛火を放った。
炎が起こす風に、灰と花弁が舞って極光の空が霞む。銀の樹は、蝋燭の炎のように細長い炎の塊になって空を明るく照らす。
燃え盛る炎の花の中、ヒースは赤い魔力光を帯びた剣先で睥睨する真昼の月を指した。
「来い!! アルファルド!!」
鬨の声、高らかに。思いの丈をぶち撒けて、挑戦者は森の王の到来を待つ。
***
助けを求める幾つもの悲鳴が聞こえた。ひとつひとつは小さくて、そよぐ風のようにささやかなものだが、それが幾千にもなれば、耳を塞ぎたくなる大音量となる。
燃える。燃える。痛い。苦しい。
花が泣いている。森が叫んでいる。月が呼んでいる。
どうしてこんな酷いことができる?
土足で神域を踏み荒らす無法者。眩い光で眼を潰して、自分の信じる正義の炎を振りかざす傲慢な太陽。月女神を掠め取る卑しい盗人め! 僕はその罪深さを激しく憎悪する。
「――ねぇ、セラ」
読み聞かせていた本を閉じて、眠ったままの愛しい横顔に呼び掛ける。君も何か異変を感じただろうか?
ベッドに手を着いて、顔を真上から覗き込んだが、セラは固く瞼を閉じたまま。まだ目覚める様子は無かった。
「少しだけ出掛けてくるよ。目を覚ました時に僕が側に居なくても、どうか悲しまないで。すぐに戻って来るからね。君をひとりにしないよ」
僕は熱で紅潮する彼女の頬に口付けてしばしの暇を告げると、部屋に蟠る暗闇に命じる。
「オリオン。刀を持て」
だが、影から僕を見つめる真紅の眼は、瞬きすらしなかった。その場を一歩も動かず、反抗的にぐるぐると唸って牙を剥く。
「僕に歯向かうのか? オリオン」
僕の機嫌を如実に反映して荊の結界がザワザワと蠢く。少し怯んだオリオンはしゃがれた声で反論した。
『……きょうだいよ。てんろう、まものくう。にんげん、くわない。にんげん、きらない。るしおん、つがいやくそく、した』
その刀で散々人も魔族も斬り捨てた男が、人間を斬らないとアーシャと約束しただと?
思わず失笑が溢れると、オリオンは悲しげにくーんと鳴いた。
「天狼の今の主人はアルファルドだ。ルシオンじゃない。アスタヘルももうこの世には居ないんだ。……オリオン。もう一度言う。刀を持て」
オリオンは今度は逆らわなかった。影の中から黒塗りの刀を差し出して、潤んだ眼で僕を見上げる。
「セラに誰も近付けるな。侵入者は喰い殺せ」
耳をぺたんと寝かせたままオリオンは一声吠えて、セラの眠るベッドの側に伏せた。
「頼んだよ。兄弟」
父と先生とヒースがコソコソと悪巧みをしているのは知っていた。おそらく、もう僕の味方は魔狼たちしか居ないのだろう。
刀の鞘をベルトに差して、僕はバルコニーから城の外に出た。何日かぶりに見た陽射しの明るさに眩暈がする。
ああ、本当に鬱陶しい。太陽なんて、消えてなくなればいいのに。
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