48 ヒース④

 御印みしるしの恩寵を失うこと。それ即ち、御印によって底上げされた魔力や生命力が常人並みに低下すること。

 当然、御印の影響により常人より長かった寿命も、常人並となるだろう。ヒースの提案は、今代の月女神ルーネに神性を捨てて人になれと言っている事と同義である。


 エリオットはセリアルカを愛している。それは誰の眼からも明らかだ。しかし、親娘の愛を盾に御印の委譲を迫ることが果たして正しいことなのか。セリアルカが目を覚ましてからその事実を知った時、何を思うのか。

 ヒースの脳裏には今尚さまざまな思いが行き交って、責を負う覚悟を揺さぶっていた。


 どれ程の時間が経ったのか。

 床に着いた片膝は自重で痛み、緊張で乾いた喉はガラガラして、胸に当てた掌には冷たい汗を握る。正面の窓から差す陽の光がエリオットの影を伸ばして、跪くヒースに冷ややかな圧を投げかける。

 実際は少しも時間が経っていないのかもしれない。呼吸することすら咎められそうな重い空気に、柱時計の秒針の音すら歪んで聞こえる。仕切り直すべきか? そんな事を考えた時、エリオットは眉間を揉みほぐしながら大きなため息をついた。


「まったく……セラは面倒な男にばかり好かれるようだ」


 ため息混じりの憎まれ口を叩いて、エリオットは席を立った。ヒースの身体を覆っていた影が引いていく。返答と幾ばくかの罰を求めて顔を上げれば、エリオットは困った顔でヒースの肩に手を置いた。


「そんな泣きそうな顔をしないでくれ。今すぐ死ぬわけじゃないんだ。……元々、セラが十八歳になったら、月女神ルーネ御印みしるしを譲るつもりだったんだ。予定より半年ぐらい早まるだけだよ」


「では……」


 エリオットは頷く。だが、灰色の眼光は未だ鋭く、ヒースの眼の奥を真っ直ぐに射抜く。


「君はその御印を思いっきり使ってみたいんだろう?」


 ぴしりと胸にヒビが入った気がした。言葉に詰まるヒースに、エリオットは追い討ちを掛ける。


「口ではセラと私のためと言いながら、本当は力を取り戻しつつある御印の力を使ってみたいから森に残ると言っているんじゃないかね?」


 真心を邪推されるのは悲しい。だが、それを全く考えなかったと言えば嘘になる。

 白薔薇の保持者が真の力を取り戻すこと。それは、嘘吐き公爵と蔑まれてきたクレンネル家の悲願である。

 たとえ魔法が使えるのが、この森に居る間だけだとしても、“クレンネル家はクレアノール王家の末裔であり、聖王セイリーズの直系の子孫である”ということの証左になる。


 自分は何者なのか、多くの人々が囁くように聖王の名を騙る偽者なのか。ヒースは物心ついた頃から自身に問い続けてきた。聖王セイリーズ程でなくてもいい。人並みに魔法が使えるなら、自身の家名を高らかに謳う事ができるのなら、どれ程素晴らしいことだろうと考えない日は無かった。


 ヒースは肩に置かれたエリオットの手に手を重ねる。この森に入ってから魔力が安定している。あれ程激しく反発していたのに今はエリオットの手を弾かない。コントロールができている。何か力になれるとしたら、今しか無いのだ。


「どこまでできるのか、この力を試してみたい気持ちがある事を否定はしません。ですが、セラと先生……それからアルも……みんなを助けたい気持ちに嘘偽りはありません。僕はできる事を何もしないで、あの時こうしていればなんて後悔したくないんです。仰る通り、僕が戦うのは僕のため。僕を含んだみんなのためです」


 真っ直ぐに眼を見つめてキッパリと答えたヒースに、エリオットは「馬鹿正直に言う奴があるか」と毒気を抜かれたように笑った。ピリピリとした威圧感はなりを潜め、残ったのは自ら嵐に飛び込もうとする雛鳥への呆れに似た憐れみ。


「意地の悪い事を言ってごめんよ。だけど、これ以上は本当に危険なんだよ。君を無事に帰してあげたいんだ」


 泣きそうな顔をしているのは貴方の方だ。そう指摘したら崩れ落ちそうな悲しい笑顔だった。喉の奥、あと一歩の所で引っかかった言葉が痛むように、エリオットは苦しげに顔を顰める。


「僕の生命は守られるかもしれませんが、僕の矜持は死にます。友人を見捨てて逃げ帰ったら、僕は二度と自分を誇れない。僕は僕で居られない」


 左手の白薔薇はいつになく優しい温もりを宿していた。森に来てから活発になった御印は、まるで意思や感情を持つかのように反応を示す。今は『それでいい』と背中を押されている気がして、ヒースは心が静かに奮い立つのを感じた。


「……だから、最後までお供させてください。先生!」


 ヒースの祈るような訴えに、エリオットは再びソファに身を沈めた。悲痛に揺れる目を瞑って、諦めたように何度も頷いた。


「ありがとうヒース君。君の友情に縋らせてくれ。セラに御印を譲るために、力を貸してほしい」


 ようやく引き出せた言葉に、ヒースは満面の笑みで答えた。


「はい!」


「その前に。膝が痛そうだからソファに掛けてくれ」


「あはは……助かります」


 なかなか上手い具合に格好がつかないなぁと照れ笑いを浮かべながら、ヒースは軋む膝を伸ばしてソファに掛けた。ヒースが席に落ち着いたのを見計らって、エリオットは作戦会議を再開する。


「まずは問題点の確認からだ。御印を譲るには、セラに触れなくてはならない。だが、アルファルド君はセラに近付く者の全てを拒絶している。アルファルド君を引き離さない限り、セラの側に近付くことはできない。それがまず一点」


 セラに御印を譲ると言っているのだからアルファルドの望み通りになる。説得して協力をあおげば穏便に済むのでは? というヒースの質問に、エリオットは呆れたように首を振る。


「何度も呼びかけたが耳を貸さない。彼は私を信用していないんだ。またセラを奪われて引き離されると思い込んでいる。……まぁ、やろうとしていることは同じようなことなんだが。ヒース君が呼びかけても悪い方に刺激するだけだろう。荒療治するしかない」


 頭を抱えるヒースに、エリオットは疲れた顔で笑った。


「二点目は、御印の委譲には激痛を伴うことは言ったかな? 移譲が完全に終わるまで私は無防備になることだ。アルファルド君は私を傷付けられない。だが、彼は森の王だ。その気になれば自ら手を下さずとも、森に住まう彼の民を操ることができる。彼らの動きを封じることが先決だ」


「子供の頃、アレクシウス陛下に御印の場所や面積によって痛みの強さも変わるって聞きました。月女神の御印はたしか……右脚のかなり広い部分でしたね」


 エリオットは頷いて右膝に触れると、右の腰下から脹脛ふくらはぎまで、服の下に緑銀色の三日月とつたの紋様が浮かび上がった。これが痛むとしたら、左足が悪いエリオットが逃げるのは困難だろう。


「私ひとりでは同時に二つの問題を解決することはできない。アルファルド君を引き離し、セラに御印を移譲する前に殺されるのがオチだ。……だが、君が協力を申し出てくれたお陰で希望が見えてしまった……」


 見えてしまった。という言い方が気になったが、エリオットは自身を犠牲にしても成し遂げるつもりだったのだろう。拒否されても食い下がって良かったとヒースは胸を撫で下ろした。


「ヒース君。君にはアルファルド君を誘き出し、足止めする役目を頼みたい。その間に私はこの城を眠らせて、セラに御印を移譲する。――ただ、何度も言うように本当に危険な仕事だ。断ってくれていいんだよ」


「やります」


「私は生き神に挑めと言っているんだ。命懸けの戦いになるんだよ?」


「分かってます。本気のアルと戦える機会なんて二度と来ないでしょう? アルが相手なら僕も遠慮はしません。アルは僕が止めます。それより、城を眠らせるなんてできるんですか?」


 まだ何か言いたそうだったが、エリオットは説得を諦めたようで、ガックリと肩を落とした。


「眠りに作用する月魔法が有るんだ。この城の敷地内なら眠らせることができる。……君は自分の心配をしなさい。準備ができたら、君はナナカマドの道を通って月神セシェルの神域に行くんだ。降月祭が近いから、神域への境が曖昧になっている。道はすぐに見つかるだろう。太陽神クリアネルが月神の神域に侵入すれば、アルファルド君は血相を変えてすっ飛んで来るだろう」


「神話の再現というわけですね」


 エリオットは然りと頷いた。

 月神の住まう神域の森に入り、囚われていた月女神を救い出したのは太陽神。ヒースが神域に侵入すれば、月神は確実に激怒するだろう。


「アルファルド君が城を出たら、眠りの魔法を展開する。御印の委譲が成功しても失敗しても一時間で魔法が切れる。アルファルド君を足止めするのは、最大で一時間を覚悟しておいてほしい。……だが、君の命が最優先だよ。もう駄目だと思ったら逃げるんだよ?」


 と言われて素直に逃げる男ではないだろうが。というエリオットの皮肉は今のヒースには届いていなかった。ヒースの思いは既にアルファルドとの対決に向いている。


「分かりました。早速準備します。出発は……正午にします。ハティは置いて行きますので先生もお気をつけて」


「ああ。ありがとう……ヒース君」


「礼を言うのはまだ早いですよ。先生」


 手首に嵌った金の腕輪を回しながら、ヒースは胸の奥に闘志が燃えるのを感じていた。

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