47 ヒース③

 目の前には塔が在った。陽光は霧に遮られ、薄暗い空にぽつんとひとつだけ伸びる異影。塔に絡みつく色褪せた灰色のつるには、露に濡れた漆黒の薔薇がぽつぽつと咲き、周囲には濃厚な香りが漂っていた。


 塔の入り口は十二の鍵が付いた扉で塞がれている。扉にはミミズが走ったような文字がびっしりと書かれていて、呼吸するように緩慢に明滅している。

 魔法の知識の無いヒースには内容を解読できなかったが、ぐにゃぐにゃと蠢く文字に、皮膚の上を虫が這いずるような悪寒が走った。


 一体中に何があるというのか。狂気じみた光景に目を逸らしたくても、身体が思うように動かない。まるで、誰かの身体に入って、その眼で物事を見ているような感覚である。


 見てはいけない。扉に触れてはいけない。

 左手の甲の白薔薇の御印みしるしは燃えるように熱くなり、身の危険を訴えている。背中を逸らし踵に全体重を掛けて、抵抗しようと脳が指令を送っても、花に誘われる蜜蜂の如く、塔に引き寄せられる。


 ヒースの意思に反して、手は吸い付くように扉のハンドルに伸びた。指先が触れた瞬間、十二の鍵は光の粒になって霧散する。塔は訪問者を待ち侘びていたかのように、音も無く扉を開いた。


 扉を潜る視界の隅で、黒薔薇が花弁を散らして枯れ落ちる。同じ蔓にまた蕾ができたと思えば瞬時に新たな花が咲き、ため息のように艶かしい香りを吐き出した。そして、全ての香りを絞り出すと、使命を果たしたとばかりに枯れ落ちる……。

 繰り返される生と死。あの黒薔薇は、塔を養分にして咲いているのか。

 枯れ落ちた花を踏みつけながら、ヒースはそんなことを思った。


 ――灰色。塔に入った途端、眼に飛び込んできたのは灰色だった。

 室内の暗さは瞬きを繰り返す内に慣れたが、眼に映る壁も床も天井も家具も全てが灰色だった。白でも黒でもない、曖昧で希薄な色。この眼は曇り、色を認識することができなくなってしまったのかと錯覚する程に。


 まるで古い写真の中に入ってしまったかのような、色も生命も感じない静止した世界。――墓地のようだと思った。

 暗い空にぽつんとひとつ建つこの古ぼけた塔は、さながら墓標だろうか。


『――――さま?』


 誰かに呼ばれて顔を向けたその瞬間、視界は闇に閉ざされた。突然目隠しをされたかのように、あの妖艶な黒薔薇も、灰色の部屋も、何も見えない。


『――は――ないと思っておりました。――の?』


 濃厚な闇の中、鈴を転がすような愛らしい少女の声が響く。ずっと聞いていると頭の芯がぼうっとなって、身体が浮遊するような不思議な感覚だった。


 君は、誰?

 どうしてこんな寂しい場所に居るの?


『――さま、こちらへいらして。その――では、――――ますよ』


 遠く、近く、歌うような少女の声は続く。声が近付く度に胸の内に甘ったるい澱が積もっていく。温かく小さな手が指に触れた途端、強い感情の波に心は酷く掻き乱された。


 呑み込まれ、混ざり、引き摺られて砕け散る。ままならない思いの痛み。熟して膿んで腐り落ちるようなそれは、まるで……。


『知る必要は無い』


 刹那、バチンと頬を弾かれて真っ暗な世界は反転する。閃光が世界を焼いて、眩い光に眼が眩んだ。




 気が付くと、ヒースは溢れんばかりに眼を見開いて天井を見つめていた。手は毛布を固く握り締め、ゆるく曲げた足の指も攣りそうな力でシーツを掴んでいる。


 足元で巨大な白い毛玉がもぞもぞと蠢くのを見て、ようやく身体から無駄な力が抜けた。乾いて痛む眼を瞑って、ゆっくり呼吸を整える。

 ……今見た夢は何だったのか。


 闇から呼ばうあの少女の声がまだ聞こえる気がして、ヒースは頭から毛布を被る。覗き見を咎めるようにヒースの眼を追い出したのは何者だろうか。

 目線の高さ、扉に伸ばした手から考えて男だったと思う。低いが聞き取りやすい声は、どこかで聞いたような声だった。


 そう。例えば――戯れに録音した自分の声のような。




 ***




 不気味な夢を見ようとも朝はやってくる。月光花と二匹の狼が浮き彫にされた重厚な扉を見つめながら、ヒースは大きく深呼吸した。

 ヒースの足元にお座りするハティが、ちょんと前足で足の甲を叩く。『大丈夫だよ』と励ましてくれる気がする。


「……よし!」


 両頬をピシャリと叩いて気合を入れると、ヒースは扉に手を掛けた。向かい合う二匹の狼の間を割くように重苦しい扉を開ける。

 二階の高さまで吹き抜けになった広い図書室に、整然と並んだ書架の一番奥、エリオット・リーネ教授は床に散らばった本に埋もれるように眠っていた。


「先生。起きてください」


 先にヒースの呼び声に気付いたのは、エリオットがクッション代わりにしていた大きな茶色の狼だった。クワっと大口を開けてあくびをすると、後ろ足でエリオットの脇腹を蹴る。

 それでもエリオットが起きないので、茶色の狼はクッションのフリをやめてするりとエリオットの背中を抜け出す。ヒースが止める間も無く、ゴスっと鈍い音を立ててエリオットは強かに頭を打った。


「いっ……たぁッ!? 何をするんだレグルス〜!」


「うわ、先生今すごい音がしましたけど大丈夫ですか? ……って叔父上!?」


 ヒースとエリオットの視線の先で、茶色の狼は緑の光を纏い身体を震わせる。光が消えた後にはレグルス・セシル伯爵の姿があった。


「大事な話のようだから、私は外そう。……この部屋の樹は加工されて何十年あるいは何百年経ったものだ。大きな声を出して驚かせないように」


 ポンとヒースの肩を叩いてレグルスは図書室を出て行く。

 古書やアンティーク家具のような年老いた樹ならば、小さな声で話せば聞かれないということを婉曲に教えてくれたようだ。エリオットが図書室に入り浸っているのもそういう理由なのかもしれない。

 ヒースはレグルスが出て行った扉に向かって小さく黙礼した。


「おはようございます。先生」


 ヒースが気を取り直して声を掛けると、エリオットは涙目で後頭部を摩りながら、今気付いたようにヒースの顔を見上げた。


「ん……ああ、おはようヒース君。ちょっと顔を洗ってくるよ」


 ボサボサの頭に充血した目。よれたシャツと無精髭。たった一晩で研究者らしい姿に早変わりしたエリオットに、ヒースは嘆息する。


「はぁ……ええ、はい。お待ちしています」


 エリオットが離席している間に、ヒースは床に散らばった本を拾う。

『降月の森の伝説』『月魔法が及ぼす獣人への影響』『幻の花、月光花』『失われし聖王の血脈』『青き瞳の姫君〜英雄を虜にした魔性の美姫〜』『シュセイル王国建国史(第五巻)』『アルディール戦記(第二巻)』


 嫌でも視界に入るタイトルに興味を惹かれて、ヒースは手にした本に視線を落とす。黒い布張りの本に百合に似た花が描かれたその本は、銀の文字で『月女神ルーネ』と書かれている。


 周囲に散らばっていた本の内容は伝説から歴史まで多岐に渡る。エリオットも解決の糸口を探していたのだろうか?

 こうなることを予測していたなら、今頃必死に解決方法を探したりはしないだろう。アルファルドが胸の内の全てをエリオットに伝えていたかも定かではない。エリオットにも予測不能の事態だったのか? それとも……。


 そこまで考えて、どっちだって良いじゃないか。とヒースは頭に浮かんだ考えを打ち消した。

 エリオットがセリアルカの絶対的な味方であると分かれば、それだけで充分だ。そうであるならば、きっと自分の提案を受け入れてもらえる筈だ。今必要なのはそれだけだから。




 数分後、身支度を終えて戻ってきたエリオットをソファに座らせて、ヒースは話を切り出した。


「先生。あれからよく考えてみましたが……僕は帰りません」


 ヒースの決意にエリオットは何も答えず、頷いて先を促した。相変わらずヒースの側に寄り添うハティも、耳をピンと立てて静かに聞いている。


「僕はあの二人のことが好きです。どんなに悲しいことがあっても、最終的には幸せになってほしいと願っています。今はこんなに拗れてしまったけれど、セラはアルと一緒に学院に帰りたいと僕に言いました。僕はそれを叶えたい。だから……僕が帰る時は、セラとアルと先生と一緒です」


 ヒースはエリオットの前に片膝を着いて首を垂れる。知的でありながら狼の野生を感じさせる灰色の視線が、全身に突き刺さるのを感じる。


「……ですが、このままではセラが危険です。セラだけでなく、先生も。ですから……どうか……」


 ヒースは痛みを抑えるように左胸に手を当てる。その姿は騎士の最敬礼に似ている。


「――御印みしるしを、セラに譲ってください」


 殴られるだけでは済まないだろう。二度と顔を見せるなと言われても仕方ない。侮辱と取られてしまうかもしれない。自分は今、セリアルカのために御印がもたらす恩寵を譲れと言っているのだから。


 灰色の視線の前で、ヒースは項垂れたまま答えを待った。沈黙の中、脳裏に過ぎるのは黒薔薇に絡み付かれた古い塔。

 まるで、今の自分のようだと思った。

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