46 ヒース②
「降月祭?」
ぴすぴす鼻を鳴らして眠るハティのお腹を撫でながらヒースが問うと、メイドのジャスミンは屈託の無い笑顔で元気よく答えた。
「はい! 三年に一度、新年最初の新月の夜に行われるお祭です!」
数日前から城のあちらこちらで花のリースやオーナメントを作るメイドたちを見かけていたのは、そういう事かとヒースは得心した。
テーブルの上のガラスポットから細い湯気が立ち昇り、月を溶かしたような金色の液体の中で月光花を模した花が咲く。この時期のオクシタニアで振る舞われる特別な工芸茶だと、叔母が教えてくれたのを思い出す。このお茶もお祭に因んだものだろうか?
サロンの窓から見上げた空は気怠い曇り空。雪雲に霞む陽射しに、森はいつもより色褪せて見える。月が降るというよりは、灰が降るという方が頷ける。
「へぇ〜、楽しそうだね」
「ええ、それはもう! オクシタニアで最も盛大なお祭ですよ! お祭の夜に愛を誓った恋人は月の祝福を授けられると云われておりますよ」
興奮気味に説明するジャスミンに、適度に相槌を打ちながら、ヒースは勤めて爽やかに微笑んだ。
お祭なんて初めて聞いたし、始まる前に追い出されそうだけど。と燻る不満を圧し殺す。
あれからずっと、エリオットの真意を考えているが、まだ明確な答えは見出せない。判断材料を増やすには情報を集めるしかないのだが、如何せん、ヒースは使用人たちに避けられている。
領主の城の優秀な使用人たちは、ヒースが森の王アルファルドに歓迎されていないことを敏感に感じ取っていた。
そんな中で、ジャスミンがヒースを気にかけてくれるようになったのは、ハティの風呂を手伝ってもらったことがきっかけである。
親しいとは言い難いが、現状最も友好的な使用人と言える。
その美貌と人懐っこさから大抵の女性とはすぐに仲良くなれるヒースでも、ここまで話せるようなるには時間が掛かった。
やっと普通に世間話ができるようになったなぁ、ハティのおかげだなぁ。とヒースはしみじみ思いながら、ハティのふわふわのお腹を撫でる。フガフガと呑気な寝言が聞こえて、ジャスミンと顔を見合わせて笑った。
「ふふ、ハティ君懐いてますね。お腹出して寝ちゃって、安心しているみたい」
「そうだといいなぁ。……昼間はいいけど、夜になるとセラを呼んで寂しそうに哭くんだ。なんだか可哀想になっちゃうよ」
「お嬢様が恋しいのですね。まだ仔狼ですものね」
ジャスミンはヒースの隣にしゃがんで、ハティのお腹を撫でる。手が触れ合いそうになって、ふと見上げた視線はヒースの深い青の瞳に釘付けになった。
頬を染めるジャスミンに、忘れかけていたヒースの自尊心がくすぐられる。もう少しだけ、彼女から情報を引き出せないだろうかと、邪な考えが頭を擡げた。
「あ、あの……クリスティアル様も、お祭にご参加されるのですよね?」
急に辿々しくなったジャスミンの声に動揺が見て取れるようだった。ジャスミンはちらちらとヒースの顔を窺いながらも、視線が絡みそうになるとすぐに顔を背ける。
脈がありそうだと冷静に考えてしまう自分に、ヒースは少しだけ自嘲する。
最低な行いかもしれないが、選択を間違えれば強制的に退場させられる状況で、この場所で踏み留まるためには何よりも情報が欲しかった。背に腹はかえられない。
「そうだね。君と一緒だったら楽しいだろうな。……ねぇ、良かったら、もう少し詳しく聞かせてくれないかな? 君の仕事が終わるまで待っているから。後でゆっくり、二人きりで……」
大切な宝物を包み込むようにジャスミンの手に手を重ねて、そっと握る。ある意味下心を込めて囁くと、彼女はみるみる顔を真っ赤にして震え出した。
「は、わ、わわわたくしでよ、よろしけれ…………ふぁっ!?」
途中まで上手くいっていたのに、ジャスミンは突然立ち上がり、ヒースの手を振り払った。
「ご、ごめんなさい! 私、メイド長に呼ばれているのでした! 失礼しますっ!」
ジャスミンの大きな声にハティは驚いて飛び起きる。慌てた様子で走り去って行くジャスミンを見送って、ヒースはため息をついた。背後に忍び寄る気配に、非難を込めて呟く。
「……あーあ。逃げられちゃった」
「やれやれ、油断も隙も無い。純情な田舎娘を誘惑してくれては困るな。クリスティアル君」
予想通りの声に振り向いて、ヒースは不敵に口角を上げた。猛獣を相手に消沈した顔など見せられない。
「誘惑だなんてとんでもない」
ヒースの答えに、オクシタニアの領主レグルス・セシル伯爵は愉しげに目を細めた。
「興味があるなら私が教えてあげようか?」
願ってもない機会だが、罠だとしか思えない。レグルスは
「叔父上に直々に教えていただけるなんて光栄です」
ヒースは本心からそう伝えたのだが、レグルスは片眉を跳ね上げて疑いの眼を向ける。「付いて来たまえ」と短く告げてサロンを出て行った。
慌てて後に続くと、レグルスはヒースが付いて来ているか確認もせず、スタスタと早足で歩く。すれ違う使用人たちは、怪訝そうな面持ちで彼らを見守っていた。
レグルスは一度も振り返らずに、無言で歩き続けた。
城を出て、森を抜けて、湖の畔に着いてもまだ無言だった。湖を半周程回り込んだ辺りで、湖に張り出す桟橋が見えると、ようやく後続を確認する。桟橋の先端には小舟が一艘繋がれていた。
「クリスティアル君、舟を漕いだ事はあるか?」
「あります……けど……。まさか……」
どうせ乗るなら、女の子とのデートがいい。などという思いが顔に出てしまったのか、レグルスは渋面で頷いた。
「言いたい事は分かる。私もボート遊びなら妻としたい。……だが、必要な事だ。我慢して乗ってくれ」
レグルスはヒースにオールを渡すと先に小舟に乗り込み、椅子板に腰掛ける。ハティはヒースの迷いなど知らず、颯爽と小舟に乗り込んでヒースを呼ぶように吠えた。
「ああ、もう! わかったよ!」
舟を繋いでいたロープを解いて、オールを片手に乗り込むと、桟橋を蹴って勢いをつける。小舟はゆっくりと水を掻き分けて進み出した。
「どこまで行けばいいんです?」
オールを操りながらヒースが問う。とりあえず、船出したものの行き先は知らない。
曇天の空を映した灰色の湖には、薄ら霧が掛かっている。最初は興奮していたハティだったが、景色が見えないせいかすぐに大人しくなってしまった。
小舟は雲間を漂う葉っぱのように、冷たい霧の中をゆらゆらと頼りなく進む。
「この辺りでいい」
湖の中程まで来たところで、ようやくレグルスのお許しが出た。ヒースは船縁にオールを引っ掛けて一息つく。ハティが労うように頬に頭を擦り付けて来た。
「ハティが暴れないように、そのまま抱いていなさい」
レグルスに言われるままヒースはハティの太い首に腕を回す。湖上を渡る風が止んだ瞬間、キィンと耳鳴りのような音が響いた。
「これは……風の結界?」
ぐらつく平衡感覚にヒースは顔を顰める。ハティは暴れなかったが、耳をぺたんとしてきゅーきゅー哭きながら異常を訴えている。
「森の王は地獄耳でね。森の動植物は彼の味方だ。何が聞いているか分からない」
「なるほど……」
水に浮いた小舟ごと結界に入れてしまえば、アルファルドの耳を誤魔化せるというわけか、とヒースは解釈した。
「それはつまり、アルに聞かれたくない話もしてくださると考えてよろしいですか?」
レグルスは肩を竦めて苦笑する。怜悧な微笑を貼り付けたその顔は、アルファルドとよく似ている。きっと、アルファルドが順当に歳を取れば、こんな風になるのだろう。
アルファルドの事を思い出した途端、ヒースの胸の内から警戒心は消え失せ、憤りと反発心が漲った。
「森を出ろって話なら、先生に言われました。まだ答えていませんが、僕は事の顛末を見届けるまで帰りません。もしセラが目を覚まして、この森から出たいと言うのなら僕がセラを連れて帰ります」
「そうか。私は手助けしないが、止めもしない。君の好きなようにやってみなさい」
帰れと言われるだろうと構えていたので、レグルスの言葉にヒースは目を丸くした。レグルスはヒースの反応を楽しむことなく、悲しげに瞼を伏せる。
「あのまま眠り続ければセラは衰弱して死ぬだろう。だが、セラが御印を継ぎ、
アルファルドがそこまでするだろうか? だが、そうすれば御印は一族の一番若い者に緊急的に移動するだろう。
――つまり、セリアルカが名実共に
「アルファルドの月女神がセラだけであるように、私にとっての月女神はエリオットだけだ。……私は、エリオットを救いたい。エリオットがそれを望んでいなくとも」
森の王がそれを望んでいなくとも。ヒースにはそう聞こえた。レグルスもまた、御印に翻弄される
白薔薇が真の力を取り戻したら、自分や兄も神々の因縁に巻き込まれるのだろうか?
恐ろしいと感じる反面、少しだけ羨ましいとヒースは思った。
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