45 ヒース①

 冷ややかな青い日が昇って、長い夜が明ける。停滞する図書室の空気は少し埃っぽくて、分厚いカーテンの隙間から差込む朝の清浄な光の中にきらきらと埃が舞う。

 一睡もできなかったのだろう、窓辺に座るエリオットの目元には疲労の影が濃い。御印の影響で三十代にしか見えない彼も、今は年齢相応にくたびれて見えた。


「先生。少しお休みにならないと」


 遠慮がちにヒースが声を掛けると、エリオットは青い顔で振り返り、瞼を伏せて微笑んだ。


「うん。そうだね。……でもなんだか目が冴えちゃってね」


 エリオットはため息混じりで言うと、カーテンを開ける。まだ淡い朝日に縁取られる横顔はセリアルカにそっくりで、昨夜最後に見た苦しげな彼女の姿が思い起こされる。


 やはり主人の面影を見たのか、一晩中ヒースの側を離れなかったハティが、トコトコとエリオットに歩み寄る。特に招かれたわけではないが、のっしりとエリオットの膝に顎を乗せて上目遣いでエリオットの顔を窺う。前足で手の甲をぽすぽす叩くと『なでないの?』と不思議そうに首を傾げた。


 セリアルカが言うには、ハティの真っ白な被毛には癒し効果があるという。そのふわふわモフモフの虜になった者は、触らずにはいられないのだと。


 呆気に取られていたエリオットも恐々触れてみて、手触りが気に入ったのだろう、わしわしと撫で始める。眉根を寄せてつらそうに堪えていた表情は、ほんの少し和らいだ。


 撫でられて気持ちよさそうに目を細めるハティは、自分のモフモフの効能を理解して、弱った人に寄り添うのかもしれない。人懐っこいハティにしかできない仕事である。


 では、自分はどうだ? 皆のために何ができるのだろう?

 ヒースは胸の内に問い掛けて、ひとつ大きなため息をつく。――答えはまだ見えない。

 だが、まずは昨夜のことを謝らなければと重い口を開いた。


「ごめんなさい先生。僕がアイツをぶん殴ってしまったから、怒るに怒れなくなってしまいましたよね? 申し訳ありません。……辛いのはセラと先生なのに」


 エリオットは膝上のハティの頭を撫でながら、疲れたように力無く笑った。


「はは……むしろ君に殴らせてしまって申し訳なかったよ。……でも、お陰様でちょっとスカッとした」


 ヒースが怒りを爆発させたことで、逆にエリオットは冷静にならざるを得なかった。それによってエリオットが感情の行き場を失っていたらと思うと、ヒースは居た堪れなかった。


 怒りも悲しみも燃え尽きた様子のエリオットに、自分の行いが如何に幼稚だったかを反省する。

 しょんぼりと俯くヒースにエリオットは苦笑を溢した。


「……君は優しいね」


 そんな言葉を掛ける貴方こそ優しいのではないか、とヒースは思う。

 窓から差す光は明るさを増して、夜の名残りのような青が薄らいでいく。逆光に霞むエリオットの笑顔に、セリアルカの面影を見て胸が詰まった。


 ――僕がもっと、ちゃんとしていたら、今ここでハティを撫でて笑っていたのは君だったのに。どうしてこんな事になってしまったんだろう?


「……優しいだけじゃ大切なものを守れないって、僕に教えてくれたのはアルだったんですけどね」


「それはなかなか耳が痛いね」


 エリオットは肩を竦める。図書室に一脚だけあるソファに移動すると、ハティもついてきて先程と同じようにエリオットの膝上に陣取った。エリオットにはまだ癒しが必要という判断らしい。


「セラは、大丈夫なんですか?」


 ヒースが書架に掛けられた梯子に腰掛けて問うと、エリオットは小さく首を横に振った。


「そう……ですか。やっと体力が回復し始めたのに、今度は高熱だなんて」


 大丈夫でないのなら、どうしてそんなに落ち着いていられるのだろう? 一度浮かんでしまった疑問は、ヒースの胸の奥で澱のように積もっていく。思えば、エリオットにも不審な点が多々ある。


 ヒースの記憶によれば、アルファルドとエリオットは手紙のやり取りをしていた筈だ。セリアルカやヒースが知らない事実を知っている可能性がある。

 もし何か予兆があったなら、エリオットはこうなる事を知っていたのではないか。そもそも、どうしてこの冬に危険を冒してオクシタニアに来なければいけなかったのか。


 詰め寄りたい気持ちはあったが、感情を爆発させた後では憚られた。

 ヒースの逡巡を知ってか、エリオットは徐に話し始める。


「君の叔母様……ミラは二度、狼男に噛まれたということは知っているね?」


「はい。最初がはぐれ狼で、二度目が叔父上だと聞きました」


 ヒースは一度頷いたまま俯いた。ミラならば、セリアルカに寄り添ってくれると信じていた。

 ミラは今もアルファルドを説得したり、セリアルカのために動いてくれるが、アルファルドに強く出られてしまうと逆らうことができない。


 ミラに限らず、おそらくレグルスにも止められなかっただろう。

 このオクシタニアの人々の中に、今代の月神セシェルに逆らえる者なんて居ないのだから。責めるのはお門違いだと理解はしている。けれど、感情が追いつかない。

 ヒースは無意識に、膝の上で組んだ手に力を込めた。


「噛めば牙は抜けるが、噛まれてもすぐに眷族やつがいになるわけじゃないんだ。眷族化や番になることを受け入れ、牙が馴染むまでの間、身体が作り変えられる苦痛に耐えねばならない。ミラは逸れ狼に噛まれてから三日間、眷族化を拒んで苦しみ続けた」


「今の、セラのように?」


「そう。獣人から獣人の場合、こんな風に寝込むことは通常はあり得ない。セラが高熱を出して眠り続けているのは、牙を拒否しているからだよ。……セラは同意しなかった。噛まれることを望んでいなかったということだろうね」


 ヒースの眼から見て、二人は相思相愛だった。真夜中のバルコニーで話した時も、セリアルカはアルファルドに寄り添うとヒースの誘いを拒んだ。


 セリアルカはアルファルドを番に選ぼうとしていたと思う。噛むことに対する苦手意識は、時間が解決してくれる。ヒースはそう捉えていたのだが……。

 それは、甘い考えだったのだろうか?

 その判断ミスがセリアルカを苦しめているのだろうか?


「でも……眷族? 番? になることを拒んでも、噛まれてしまったら、それを防ぐ手立ては無いんですよね?」


 思い出すのは、夏のリブレアスタッドの事件。

 現状、眷族になった者を、元の人間に戻す方法は無いとされている。

 どんなにセリアルカが拒み続けても苦しみが続くだけで、アルファルドの番になることは決定しているのではないか?


 ヒースの問いにエリオットは宙を見つめて記憶を遡る。少しの沈黙の後に「君の母君にも少しだけ関係のある話だからね」と前置きした。


「私が騎士になりたての頃のことだ。『妹が狼男に狙われている』と、大公妃……君のお母様からの依頼を受けて、私とレグルスがミラの護衛をすることになった。その間にレグルスとミラは恋仲になってね。結婚秒読みというところで、ミラは狼男に襲われたんだ」


 叔父夫婦の結婚に母が関わっていたとは知らなかった。こんな事態でなければ、もっと詳しく聞きたい話だったがヒースは黙って先を促した。


「ミラは牙に抵抗した。番になるのならレグルスの番がいいと、それが叶わないならそのまま衰弱して死ぬと、レグルスに懇願したんだ。ミラの身体が二度目に耐えられるかは大きな賭けだったが……あの通り、彼女は耐え抜いた」


 あの穏やかな叔母のセリフとは信じ難いが、身体が作り変えられる苦しみに打ち勝って、真に愛する人と結ばれたというのは、一条の光明に思えた。


「セラが番になることは決まっている。だが、誰の番になるかはまだ決まっていないんだ。だから、アルファルド君はセラの側を離れられないのだよ」


「もし別の獣人に噛まれて、セラがその人を番と認めたら、セラはその人の番になってしまうから……ということですね」


「そういうことだ」


 エリオットは眉間を揉みほぐしながら「すまないね。少し疲れてしまった」と掠れた声で言った。


「長々とお引き留めしてすみません。どうぞごゆっくりお休みください」


 ハティの重みで痺れたのだろうか、よろけたエリオットに肩を貸すと、やや充血した灰色の瞳がヒースの眼をじっと見つめる。


「――ヒース君。セラを思ってくれることは嬉しいよ。しかし、今のアルファルド君は眠り続けるセラに焦っている。激情に駆られて何をするか分からない。君は……学院に帰る方法を考えた方がいいと思う」


「何を仰るんです! このまま引き下がれるわけないでしょう!?」


 図書室を出て行く背中にヒースは声を荒げた。


「よく、考えてくれ。君がこの森を出るのなら、アルファルド君も協力してくれるだろう」


「そんな……!」


 立ち尽くすヒースの足元に、ハティは静かに寄り添っていた。

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