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 見る夢は血と汚泥に塗れていた。

 祖父とシリウスと過ごした幸せな記憶も確かにあった筈なのに、全て戦いと死の記憶に塗り潰されて、二度と見ることはなかった。


 夢を見た朝は最悪な気分で、何を食べても血の味や腐臭を感じて、食べ物を一切受け付けられなかった。

 だから、そんな日の夜はセラからの手紙を抱いて眠る。


 返事は相変わらず冷たかったけれど、律儀にも必ず書いて寄越してくれる。セラは毎回文通はこれで最後にしようと遠回しに提案してきたけれど、僕は気付かないフリをして必死に新しい話題を探した。

 何としてでも文通を続けたかった。僕にとって、セラの手紙は命綱だったから。手紙から僅かに香るセラの甘い香りだけが、壊れそうな僕の心を何度も救ってくれたから。


 その頃はまだ、それで満足できたんだ。遠く離れていても繋がっている。僕のために時間を割いて手紙を書いてくれる。会えなくても、セラの香りがあれば僕は僕で居られる。そう思っていたのに……。




 ルシオンの夢にアスタヘルが現れたのは、ルシオンが二十代前半、僕が十六歳になった頃だった。

 二十歳を過ぎてからアスタヘルに出会うまでのルシオンの記憶は曖昧だ。御印みしるしの保持者は老化が遅くなることもあって、本当のところ彼が何歳だったのかは分からない。


 セラによく似たあの人を、ルシオンは憧憬と崇拝の眼で見つめていた。そこには若い雄らしい劣情も多分に含まれていたけれど……。

 自分の人生に月女神ルーネは現れないのだとルシオンは諦めていた。女に不自由したことは無かったし、愛は手っ取り早く快楽を得るための手段。どんなに乞われようとも、ルシオンの胸の内から母と同じ人間の女に対する愛情が生じたことは無く、飽きたら捨てることに何の感慨も湧かなかった。


 ――そのルシオンが恋に落ちて、ましてや愛を乞うなど……。

 歴代の月神セシェルを狂わせてきた月女神の香りは、例外無くルシオンをも狂わせた。一度その香りを嗅いでしまったら最後。もう二度と戻れない。


 狂おしい恋慕に身を焦がし、生まれて初めて受け入れられない愛の痛みを知っても、不思議と絶望はしなかった。

 この身は月神の器。月女神は必ずこの腕の中に落ちてくる。そして月神を赦し、愛してくれる。ルシオンはそう信じて疑わなかった。


 ――結果は、ルシオンの粘り勝ち。

 最初は、それはもう害虫を見るような目でルシオンを見ていたアスタヘルだったが、何度も共に死線を潜り抜けることで、次第に二人の距離は近づいていく。

 ついに二人が恋人同士になった感動的な朝、僕は僕とルシオンの立場が完全に逆転してしまったことに気付いた。


 親兄弟から捨てられた可哀想なはぐれ狼ルシオンは、最愛の人を見つけて絆を深めていくのに、幸福で恵まれた出自のアルファルドは、最愛の人に拒まれて会うことすら許されない。――なんという屈辱だろう?


 ルシオンの夢を見るのが楽しみになる日が来るなんて、想像もしなかった。

 愛情満ち足りた幸福という凄まじい中毒性に、僕は寂しさのあまり、なす術もなく溺れていった。この幸福な夢から覚めたくない。そう願ってしまう程に。


 だからあれは、今を生きるセラから目を背けて、アスタヘルの思い出に縋った僕への罰だったのだと思う。




 あの炎の夢を初めて見たのは、人混みの中にあの人と同じ長い黒髪を見た日の夜だった。


 炎に包まれた廃墟の街。瓦礫と屍の山の上で二人は対峙する。

 長い髪を振り乱して、ルシオンに斬りかかるアスタヘルの眼は、炎を映したかのような禍々しい紅だった。


 あの場所が何処なのか、いつの事なのか、どんな経緯であんな事になったのか、前後も因果関係も不明瞭。

 順序もバラバラな断片を並び替えて繋ぎ合わせて、ようやく見えた事件の全貌は目を覆いたくなるような惨劇だった。


 燃え盛る炎の中、ルシオンはアスタヘルの剣を躱しながら何度もやめてくれと懇願する。けれど、アスタヘルは止まらなかった。糸が絡まったまま雑に操られる人形のように、めちゃくちゃに剣を振り回してルシオンを追い回す。


 ルシオンが斬撃を受け止める度、その反動で彼女の身体の傷口から黒い血が滴り落ちる。生存本能を無視して肉体の限界以上の力を無理やり引き出されて、彼女の身体は崩壊し始めていた。


 斬り結ぶこと数度、近付いた彼女の顔は苦悶に歪み、震える唇から一筋黒い血が滴る。必死に抵抗しているのだろう、瞳の紅色は薄れ、僅かに光が戻った。


『ルシオン……お願い』


 残酷な願いを掛ける声は甘く、毒のようにルシオンの心を蝕んだ。アスタヘルの身体から流れ落ちる黒い血は止まらず、足元に泥のような血溜まりが広がっていく。彼女の生命が零れ落ちていくのが目に見えるようだった。


『いやだ!! その願いは聞けない……俺にはできないッ!』


『もう、浄、化……の、魔法も……間にあわ、ない』


 瞬きに押し出されて、涙が頬を伝う。濁った赤灰色の瞳は瞳孔が開き、目の前に居るルシオンの姿が見えていないようだった。


『いやだ……やめてくれ。俺にはできない。他の事なら何だってするから……アーシャ』


 アスタヘルは剣を引き、ルシオンの刀の前に身を晒す。


『おねがい。もう、耐えられ、ない。御印みしるしが穢れる、前に……わたしを……て』


『いやだ……いやだ! いやだッ!!』


 泣き叫ぶルシオンを抱き締めて、アスタヘルは子供をあやすように優しく背中を叩く。子守唄を歌うように優しく『大丈夫よ』と繰り返した。


 炎の中に在りながらその抱擁は氷のように冷たい。彼女の首筋に顔を埋めても、感じるのは饐えた古い血の匂いだけ。ルシオンが愛した香りは、もうこの世には無い。その日、その時に、永遠に失われたのだ。


『わたし、たち、またあえるから。また、あなたと出逢うために』


 記憶はノイズが掛かり、黒一色に塗りつぶされて混乱を極めた。この夢を読み解くのは、砂嵐の中で積み木を組みたてるような困難な作業だった。

 この記憶は使えない。そう判断してそこで解読を諦めるべきだったのかもしれない。御印にとって必要なのは“戦いの記憶”。そこにどんな人生が在ったかなんて本来は不必要な情報だ。


 だけど、僕は納得できなかった。これは何かの間違いだと信じたかった。真実を解明しなければと思ったんだ。


 嘆きの嵐が通り過ぎた後には、燃え落ちる廃墟の中でアスタヘルの遺体を抱きしめるルシオンの姿があった。

 焼けた肺から絞り出した神獣の慟哭が、黒煙に覆われた空を揺るがす。


 炎熱に歪み捻じ曲げられた建物の屋根が崩落して、崩れ落ちた屋根の向こう、ほんの僅かに見えた細い月に、ルシオンは眼を瞠る。


 ――この腕の中の愛しい人を守らなければ。


 その行動に何の意味があったのか分からない。ただ、もし自分だったら……やはりそうしたのだろうと思う。


 ルシオンは瓦礫から身を挺して彼女の亡骸を庇った。燃える瓦礫が容赦無く降り注ぎ、ルシオンの身体を穿つ。倒壊する家屋の梁が燃える槍となってその胸を貫いても、ルシオンはアスタヘルを庇い続けた。


 アスタヘルは、まるで眠っているかのように安らかな顔をしていた。きっと幸福な夢を見ているに違いない。

 その夢の中に、俺の居場所はあるのだろうか?


 夢でもいい。また、君に会いたい。


 その美しい寝顔を眼に焼き付けて、ルシオンは流星のように燃え尽きた。




 ***




 酷く泣いた朝のように身体が怠い。重い瞼の向こうに光の気配を感じながら、僕は目を瞑ったまま夢の縁を彷徨う。

 遠くにパチパチと火花が弾ける音が聞こえる。僕はまだあの炎の夢の中に居るのか。


 呼吸の度に痛む胸を掻き毟り、夢を振り切るように寝返りを打つと、南国の花と熟れた果実を思わせる甘い香りがふわりと漂った。

 月光花……セラの香りだ。僕を夢から救ってくれるのは、いつだってセリアルカだ。


 夢から現実に戻ってきたのだと分かった途端、意識は起きる準備を始めて周囲の情報を手繰り寄せる。火花だと思った音は、どうやら小鳥の囀りだったらしい。意識は炎の夢からぐっと遠ざかる。


 いつもより温かい布団の中。甘い月光花の香り。小さく聞こえる自分以外の浅い寝息に、セラの居る世界に戻ってきたのだと実感する。

 天蓋から垂れるカーテンの隙間から細い光が差して、彼女の横顔を照らす。少し手を伸ばせば届くところに、僕の愛しいつがいが眠っている。


「おはよう……セラ」


 なんて幸福な朝だろうか。起きて最初に見るのが、セラの寝顔なのだから。惜しむらくは、彼女がまだ目を覚さないことだ。


 触れた頬は炎を含んだかのように、じっとりと熱い。体温があることに安堵する反面、固く目を閉じて眠り続ける姿に不安が込み上げる。――そろそろ氷枕を替えようか。


「……ねぇ、セラ。外は良い天気だよ。オクシタニアはもうすぐ新年のお祭が有るから、皆準備で忙しくしているんだ」


 ベッドの上を這い、彼女の方に身を乗り出して、その美しい寝顔に話し掛ける。

 呼吸で緩やかに上下する胸。浮き出た鎖骨に口付けて、胸に耳を当てる。この温もり、この鼓動を守るためなら、僕は……僕たちは生命さえ惜しくはない。


「降月祭というお祭でね、その名の通り月女神がこの森に降りてきたのを祝うお祭だよ。セラはお祭……好きかな? 君と一緒に行きたいよ」


 月女神が主役のお祭だから、君が参加してくれたら月神も喜ぶよ。

 僕は彼女の耳に唇を寄せて、直接鼓膜を震わせるように囁く。


「ねぇ、セラ。本当は起きているんでしょう? ……いいよ。もっと甘えて。僕を困らせて」


 熱が引いて目を覚ましたら、君は僕の番。どんなに泣いたって、拒んだって、もう放してあげられない。君はもう、僕のものだから。

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