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 僕の人生にセリアルカが現れ、そして去って行った頃、夢の中のルシオンの人生にも転機が訪れた。

 ルシオンの祖父がルシオンを養子として引き取ることになり、ルシオンはようやく人らしい文明的な生活を送れるようになった。


 狼の如く吠えるか唸ることしかできなかったルシオンに、祖父は根気よく言葉を教えた。魔狼シリウスを拾ったのはその頃のことで、シリウスを相手に熱心に話す練習をするルシオンの記憶が残っている。シリウスもその時に一緒に言葉を覚えたのかもしれない。


 ルシオンが淀みなく会話ができるようになった頃、僕がルシオンの記憶を夢に見る回数は徐々に減っていった。


 御印みしるしの記憶は、戦いの記録だ。

 夢に見る記憶が無いということは即ち、命を守るために戦うような目に遭わず、平穏に過ごしたということだろう。

 ルシオンの記憶は次第に僕の成長を追い越していった。




 記憶は飛んで、ルシオンが十五歳の頃のこと。

 言葉から始まり、読み書き計算、地理に神話に歴史、剣技体術と、祖父は自身の持てる全てをルシオンに伝授すると、今際の際に一振の刀をルシオンに託した。


『私には二つ悔いが残る。ひとつは妻を眷族にしなかったことだ。そのせいでお前には大変な苦労をかけてしまった。償っても償いきれない。謝って済むことではないが……すまなかった。――もしお前が結婚することになったら、必ず相手を噛みなさい。二度とセシェルの血からはぐれ狼を出してはならないよ』


『わかった。そうするよ。もうひとつは何だ?』


『……アルディールの砂漠の街で、美しい銀色の狼を見たのだ。一目見た瞬間、彼女だと分かった……ああ、月女神ルーネ……私は御印みしるしを授からなかった……故に彼女の隣には立てなかった。だが、お前なら……。月神セシェルの御印を持つお前なら、彼女のつがいに……どうか、ルーネをこの森に……』


 握り返す手も声も弱々しいのに、その眼は最期まで獲物を狙う狼のようにギラついていた。

 心優しく穏やかだった祖父は、月女神の話になると途端に豹変した。一体、月女神の何がそうさせるのか。もし、月女神に会うことができたら、自分もそうなるのだろうか? それは酷く恐ろしくも甘美な予感がした。


 ルシオンは月神と月女神の恋物語を描いた絵本が好きだった。神々からも恐れられる人喰いの魔獣セシェルに己を重ねては、彼に寄り添う美しい銀色の狼ルーネを想った。


 会えるものなら会ってみたい。でも、月女神を見つけたとしてどうするのか?

 そもそも会えるかどうかも分からないし、会ってみたら夫と子がいるかもしれない。腰の曲がった老婆かもしれない。女かどうかも分からない。自分を見てくれるかどうかも……。


 会う前から心配するなんて馬鹿馬鹿しい。

 この身体は月神の器。月女神を誘惑するために見目美しくなることが定められている。ならばそう邪険にされたりはしないだろう。彼女も俺を探しているかもしれない。

 もしかしたら……月女神のように側に寄り添って愛してくれるかもしれない。

 そんな淡い期待を胸に秘めて、ルシオンは魔狼シリウスと共に、オクシタニアの森を出た。


 本当のところ、月女神なんて御伽噺だと思っていた。旅の目的なんて何でも良かったのだ。

 ただ、あの陰気で狭苦しく呪いに満ちた森から出たかった。誰にも傷付けられず自由に生きて、祖神の意思や御印みしるしに縛られることなく高く広い空を見上げてみたかった。――ただそれだけだった。


 それからしばらく、ルシオンとシリウスは傭兵として護衛や魔物の討伐を請け負いながら、だらだらとアルディールへの旅を続けていた。

 旅を始めた最初の頃は、森から出た開放感もあってか、とても楽しい旅だったようだ。だが、アルディール砂漠に近づくにつれて魔物が増え、旅は少しずつ厳しさを増していった。




 ある貴族の子供の護衛を請け負った時のことだ。

 普通の魔物の群れであればルシオンとシリウスの敵ではなかった。

 だが、その時の敵は連携を取るなど組織立って動く強敵だった。おそらく背後に高位の魔族がいたのだろう。寄せ集めの護衛部隊では太刀打ちできず、部隊は壊滅。

 ルシオンは護衛対象を庇いながら、なんとか近くの街へと逃げ延びたが、その戦いで相棒のシリウスが命を落とした。


 散々魔物に苦しめられてきた街の人々は、魔狼の死を嘆くルシオンを異端視した。

 魔物の死骸を捨てなければ、街に入れることはできないと、街を追い出されたルシオンは、シリウスの遺骸を抱えてひとり近くの森に葬ったのだった。


 完全に逸れ狼となってしまったルシオンは、人間への憎しみを募らせていく。祖父に禁じられた暗殺業に手を染めるようになるまで、そう時間は掛からなかった。そこからまた、ルシオンの悪夢が始まったのだった。


 ――ルシオンが二十歳の頃、僕が十五歳の頃の夢である。




 ***




 少しの間、眠っていたようだ。腕の中で震える彼女を抱え直して、その額に口付ける。先程よりも熱が上がっている。

 ぐったりと僕の胸にもたれて眠る彼女の首筋には、血が止まったばかりの噛み傷が残っている。熟れた果実のような甘い血の香りに、愛しさが込み上げてまた口付けた。


「セラ……」


 何度呼び掛けても僕のつがいは目を覚まさない。

 つらそうにシワが寄る眉間に口付けて、痛みを和らげる魔法をかけた。闇の中、緑の魔力光がセラの身体を包んで、淡い樹の香りが漂う。光が消えると、先程より呼吸が楽になったのか、表情は少し穏やかになった。


 本当は君に先に噛んでほしかった。君が僕を選んだのだと自分を誇りたかった。そのために、善き恋人であろうと今までずっとこの激しい飢えに耐えてきたのに。


 逃げられるかもしれないと思ったら、なりふり構っていられなかった。銀色のドレスに身を包み、恥ずかしそうに笑う君を見た瞬間、今夜君を僕のものにすると決めた。たとえ君に嫌われたとしても、拒まれたとしても、君を失うよりかは何倍もマシだ。

 奪われる前に、奪ってしまえ。深い胸の内から、遠い過去から、囁く声が僕を苛む。


「目を覚まして。僕を噛んで。ねぇ、セラ……」


 抱き寄せた肩の、壊れそうな儚さに愕然とする。君はこんなに細かっただろうか?

 ――大事に、しなくては。今度こそ、僕が守らなくては。


 ベッドに寝かせてあげようとセラを抱え上げると、さらさらの髪から銀の髪飾りが滑り落ちた。床に跳ねてカシャンと乾いた音が部屋に響く。

 物音を聞きつけたのか、ドアを叩く音が聞こえた。


「アルファルド? 起きていたら返事をしてちょうだい。セリアルカさんに会わせて。そのままの格好ではゆっくり休めないでしょう?」


「……母上?」


 言われて初めて、二人共血塗れだったことを思い出す。甘い香りに身体が浮いているようで、思考もふわふわとまとまらない。


「ね? ほんの少しの間だから。セリアルカさんがゆっくり休めるように仕度させて」


 額に汗を滲ませて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返すセラを見つめて、僕は渋々結界を解いた。僕らの周囲を囲っていた荊がぱりぱりと枯れ落ちて、部屋の扉までの道を開ける。「どうぞ」と促すと、母上と二人のメイドが入ってきた。


「少しだけ、部屋の外に居てくれるかしら? ……もう逃げられる心配は無いでしょう?」


 掠れた声で付け加えられた言葉には複雑な感情が揺れている。噛んだからといって、まだ安心はできないってことは、だろうに。

 僕はセラをソファに寝かせると、母上の手をそっと握った。揺れる青の瞳が僕を見る。


「着替えて来ます。その間にセラをお願いします。すぐに戻りますから。――余計なことは考えないでくださいね。僕も家族は大事にしたいと思っているので」


 息を呑み、見開かれた眼が潤む。小さく何度も頷いて、母上は僕の手を振りほどいた。


「……ええ。分かりました」


 部屋を出る寸前、母上が謝る声が聞こえた気がした。

 ぱたんと背中で扉を閉めて、離れ難い思いを扉の向こうに閉じ込める。

 シャワーを浴びてすぐに戻ろう。セラが目を覚ました時に怖がらせないように。よろよろと自室の方へ足を向けたその時。


「アルファルド!」


 血の匂いに酔っているのか、反応が遅れた。浮ついた多幸感が吹っ飛ぶガツンとした衝撃に脳が揺れる。胸ぐらを掴まれ背中を壁に押し付けられて、殴られたのだと理解した。


「やめなさい。ヒース君。それ以上は駄目だ」


 先生がヒースの腕を掴んで僕から引き剥がす。足の悪い先生を振り払うことはできなくて、ヒースは悔しげに顔を歪めた。


「……お前ッ、何で笑ってんだよ!」


 僕が? ああ、笑っているかもしれない。君もそんな顔ができたんだって、ざまぁみろって満ち足りたのかもしれない。


「ヒース君! 落ち着きなさい!」


「先生は、セラが……っ!」


 言いかけて、ヒースは続く言葉を呑み込んだ。僕のシャツから手を放すと、「頭を冷やしてきます」そう言ってハティを連れて走り去っていった。

 僕はそのままずるずると座り込んで、セラによく似た横顔を見上げて毒を吐いた。


「……先生。セラはもう返しません。この森で僕と共に生きます。この器が朽ち果てるまで、僕がセラを守ります」


 沈黙する今代の月女神ルーネに掛けた言葉は、勝利宣言に似た煽りの言葉。だが、先生は軽く鼻で笑い飛ばす。……貴方はいつもそうだ。僕の言葉を軽く聞き流す。


「セラがそう望んでいるとは思えないけどね。……まぁ、じきに分かるだろう」


「どういう意味です?」


 僕の質問に、先生はゆるりと首を振った。セラとよく似た冷たい鉄色の瞳に、憐れみを湛えて。

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