月に挑みし者
Ⅶ 月蝕の狼
42『番の形』
その報せを受けたのは、警邏当番の連中とカードゲームで昼飯代を巡って争っていた時だった。
「ルシオン・セシル卿! 急いで医務室に行ってください! 奥様が倒れられたと……」
報せに来てくれたのは同じ隊の後輩だったと思うが、動揺し過ぎてあまり覚えていない。持っていたカードを取り落とし、賭けに勝っていたことも忘れて、俺は走り出していた。
アーシャは王城の警備だった筈だ。病院ではなく、医務室ということは、王の侍医の元に居るということか。行き場の無い不快感に舌打ちが溢れる。
この世ならざる美貌に虫も殺せない善良な笑みを浮かべて、無慈悲に魔族を殲滅する鮮烈なる光。人間世界の守護者、聖王セイリーズ。
俺はあの男の全てが気に入らない。どこまで視えているのか知らないが、あの青い眼にはゾッとするような魔性を感じる。
俺は他人の信仰にどうこう言うつもりは無い。あれが聖なる王だと思うのなら、そう信じればいい。
だが、アーシャだけは別だ。アーシャはあの男の魔性に気付いている。お綺麗な顔の下に潜む得体の知れない化け物の存在に気付いているのに、未だにあの男を主人と仰いでいる。それがもどかしくもあり、憎らしかった。
白薔薇に喩えられる王都リュミエルは、王城を中心に白壁の建物がぐるぐると花弁のように取り巻いている。王城に併設されている光の神殿は太陽と光の神クリアネル信仰の聖地で、年中巡礼者が絶えない。
加えて、今は次なる戦に備えてクレアノール中から騎士が集結しているため、王城に向かう路は全て人で埋め尽くされている。街中を通っては到着が遅くなるだろう。
俺は人で溢れ返った街を下に見ながら、屋根から屋根へと飛び移り城へと走った。一刻も早くアーシャをあの男の元から取り戻したかった。
ここ最近、アーシャは吐き気がすると言ってまともに食事を摂れず、夜もあまり眠れないようだった。『大丈夫。しばらくすれば治る』という彼女の言葉を鵜呑みにして、放っておいたのは俺の怠慢だ。彼女の異変に気付いていたのに。
後悔している間に医務室に着いて、扉を開け放した病室に入る。麗かな午後の陽に暖められた風が消毒液のツンとした臭いを運ぶ。酒精の臭いに顔を顰めながら、室内を見回すと、ベッドを囲うカーテンの向こうで医者とアーシャが話す声が聞こえた。
「回復するまで仕事はお休み。絶対安静よ! 本当はこのまま入院した方がいいのだけれど……」
「次の遠征が迫ってる。寝てる暇なんて無い」
説教する医者に淡々と答えるアーシャ。普段なら物音や気配で気付きそうなのに、俺が来たことにまだ気付いていないようだ。
「そんな状態で行っても何もできないわ! 医師としても許可できません!」
「戦えなくてもできることはある。私は陛下との約束を果たさなくてはならない。……なんとか、出発前に治らない?」
アーシャは食い下がるが、医者は大きなため息をついて取り合わなかった。
俺やエリオスが居ても、戦場に安全な場所なんて無い。伝令や治療班だって危険な場所で命懸けで作業をする。他人を気遣う余裕のある者なんて居ない。それに、アーシャの場合は名無しの王子に狙われているという致命的な理由も有る。
――また、セイリーズなのか。君の心を動かすのはあの男だけなのか? 約束ってなんだよ。
鈍い痺れが足元から頭へと通り抜ける。胸にどす黒い炎が渦巻いて息苦しい。
そんな関係じゃないと君は言うけれど、君は自分がどんな目でアイツを見ているのか知らないだけだ。
「……貴女、ルシオンには相談したの?」
近付いて声を掛けようと思った俺は、思わず足を止めた。アーシャの答えに興味があった。
そうだ。どうして何も言ってくれないんだ? 俺たちは
「いいえ。あの人……嫌がると思うの。獣人はそういうところ厳しいから。種を守るために、弱い、使えないと思ったら、愛情はともかく最適の相手を探す。でもね、獣人の在り方として、それは正しいことだから……」
カーテンを開けて、俺はそんな男じゃない! と怒るべきだった。けれど、俺の足は根が生えたかのようにぴたりと床を踏みしめて、一歩も動くことができなかった。
あまり良い印象を持たれていないことは察していたが、誰よりもアーシャに
俺は金狼の血なんてどうだっていい。ここで途断えるとしたら、それは
風に揺れる木漏れ日がカーテンにまだらの影を描く。布切れ一枚に隔てられた世界は遠くて、ぼんやりと映る人影は光に呑まれて今にも消えてしまいそうだった。
場違いに明るく暖かい風が通り抜けた後に、ふーんと医者は唸って、「それってつまり……」と声を上げる。がらんとした病室に大きく響いて、慌てたように声を潜めた。
「貴女はルシオンと別れたくない。捨てられたくないから、彼に弱みは見せられないってこと? ――好きなんでしょう? 彼のこと」
ささやかに添えられた言葉にアーシャは息を呑んだ。彼女が今どんな顔をしているのか無性に確かめたかったけれど、俺は息を殺して答えを待った。
言いたいことは何でも言っているつもりだけど、そんなこと、俺だって正面きって聞いたことは無い。でも、もし……君がそう思ってくれたのだとしたら……。
「ずるい……かな?」
長い沈黙の末、アーシャは小さく呻くように答えた。俺は全身の毛穴が開いたような感覚に震える。そのままよろよろと病室の外に出て、壁を背にずるずると膝を抱えて座り込んだ。
未だかつて無いぐらいに顔が熱い。こんな顔、誰にも見せられない。童貞じゃあるまいし、アーシャのたった一言でこんなにも動揺するなんて馬鹿みたいだ。
でも仕方ないじゃないか。なんだよあれ。俺の居ないところであんなのずるいよ……可愛い過ぎるだろう!?
顔を覆いながら何度も大きく深呼吸する。胸の高鳴りが落ち着くのを待って、気を抜くと破顔する顔を擦った。アーシャの前では美しい月神の子で居なければならない。
左腕の御印に魔力を集めて、ゆっくりと手を開けば、掌いっぱいに真っ白なクチナシの花が咲く。軽く茎をまとめて花束にすると、俺は頬に力を入れて病室に入った。
「あら? 遅かったわねルシオン。アスタヘルはここよ」
診察が終わったのか、カーテンの向こうから出てきた医者は、どことなく嬉しそうな顔で声を掛けてきた。
「ああ、ありがとう」
俺は素っ気なく答えて、入れ違いにカーテンの中に入った。
真っ青な顔でぐったりとベッドに横たわる最愛の人の姿に、浮ついた心は一瞬にして冷えていく。アーシャは今にも泣きそうな俺の顔を見て困ったように笑った。
「なんて顔してるの」
「君が倒れたって聞いたから……」
「ちょっと貧血で立ち眩みしただけだよ」
熱があるのか、握った彼女の手はいつもより温かい。少し腫れた瞼が重そうに、とろんとした視線を向ける。アーシャは俺が握りしめていたクチナシの花束に気付いて目を丸くした。
「……私に?」
「ああ、うん」
「ふふ、ありがとう。花束を貰ったのなんて初めて」
アーシャは花束に鼻先を埋めて香りを堪能すると嬉しそうに笑う。無邪気なアーシャの笑顔に胸が締め付けられて、俺はシャツの胸元を握りしめて俯く。その笑顔が見たかった筈なのに、彼女の顔が見れなかった。
俺は、自分の渇望を満たすばかりで、今まで花束ひとつ君にあげられなかったのか。自分の愛を押し付けて、君から奪うばかりで。
「……あげるよ。これからは毎日でも。何度でも。君の好きな花を」
俺は、憎まれていると思っていた。
彼女の意思を無視して不意打ちのように噛み付き、無理やり番にした。蔑まれても当然の事をした。それなのに……。君がそんな風に幸せそうに笑うから。
俺はベッドに腰掛けて、彼女の少し痩けた白い頬に口付ける。これから言わなければいけないことは、きっとアーシャを深く傷付けるだろう。それでも、俺が言わなくてはならない。
「俺が、君の分まで戦うから。……だから今回の遠征は辞退してほしい」
「ルシオン……」
守りたいと思った。君が怯えること無く、笑って居られる場所を。花でいっぱいにして、笑っていてほしいから。
星明かりのような青灰色の瞳が潤んで揺れる。頬を伝う涙がクチナシを濡らして、甘い香りが弾んだ。
「前みたいに無茶なことは絶対にしないと誓うよ。必ず戻ってくるから。戻ってきたら式を挙げよう。その時には……俺を噛んでくれたら嬉しい」
アーシャは頷いて、声を出さずに静かに泣き続けた。
***
一時ベルローザの街を包囲していた魔族軍は、エリオス率いるシュセイル騎士団とクレアノール聖騎士団の連合軍によって、青の山脈の西側へと追いやられた。
後にベルローザの戦いと呼ばれるこの大規模な戦いは、決着するまでに三年を要した。
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